大上段なことを、自分の行動へ

自分であり、自分が所属する会社が、掲げた大きな目標
から、自分が半年、一年に、具体的にする、行動目標を
作るということに、うまくなってほしいなと思います


野球チームの掲げる目標が、「優勝」であれば
そのまえに、どうやって、チーム自体を作り
そのチームの強みを醸成し、さらに磨いていくのか
この過程がうまくいかなければ、実際、「勝つ」
試合ができないでしょう。つまり、優勝なんて
夢の夢になってしまう


当社は「みんなが幸せになる、システムを作る会社」と
大目標を掲げています
このことに、近づいていくのに、どうするのか?
システム開発の、スキルを磨く、チームビルディングを
する、リーダーを育成する、リーダーを支える社員を
育成する。お客様に当社のファンになってもらう
お客様の満足度を、継続的に上げ続ける


こうしたことを、取り組んできました
野球でいえば、ひとつ、ひとつの試合に「勝てる」
チームを作ってる最中といっていいでしょう
いままで、やってるところの、「システム開発のスキルを
あげる」「チームビルディング」に代表されるところ
各々の社員は、自分の目標といって、そのなかの
細分化した、「できるようになること」をさがして
そこに、力を注いでいる、ということがあります


ときどき、見直してみるということが
大事なことです
チームビルディング、であり、自分の能力を伸ばす
(技術だけでなく、人間的、そして社会的に)というとき
前提となる「意欲」を自分で、喚起していくという
そういう状態を続けられるということに、「見直し」
の過程で、着目しています


「意欲喚起力」といって、当社の社員評価の項目に
加えることにしました


意欲喚起力を、なぜ、必要なんだろう、であるとか
どうしたら、その力を、自分のなかにためたり
高めたりできるのか?ということを、考えていると
「誇り」ということに、結び付くのを感じます


システム開発をして、自分のいろんなこと、「技術」
のみならず、「人格」を高めていくことができると
私は、考えます。そうなのですが、その前提に「誇りをもって
仕事する」ということがあります
誇りを持った、態度で仕事することが、安易な妥協を
許さないだとか、人から信用される、信用されるから
また、見てくれてる自分自身を高めて、その信用に
こたえようとする、そういうことに、つながる、と
信じています


みんなを、幸せにするシステムを作る
このことを、かみしめて、自分はどう、行動するのか
考え続けましょう

上村松園

以下 上村松園 棲霞軒雑記より


 私はたいてい女性の絵ばかり描いている。
 しかし、女性は美しければそれでよい、という気持ち
で描いたことは一度もない。


 一点の卑俗なところがなく、清澄な感じのする
香高い珠玉のような絵こそ私の念願とするところの
ものである。


その絵を見ていると邪念の起こらない、また
よこしまな心を持っている人でも、その絵に感化
されて邪念が清められる・・・・といた絵こそ私
の願うところのものである。


 芸術を以て人を済度する。
 これ位の自負を画家は持つべきである。


 よい人間でなければよい芸術は生まれない。
 これは絵でも文学でも、その他の芸術家全体に
言える言葉である。
 よい芸術を生んでいる芸術家に、悪い人は古来
一人もいない。
 みなそれぞれ人格の高い人ばかりである

(後略)


山種美術館で、上村松園の絵の横に、書かれていた文章に
心打たれました


拡大解釈をすれば、「生きる」ことは、人格を高める
ということを、念頭になにか、ひとつのことを、つきつめて
いく、そういうことであると、読めてくる文章と感じます


絵を描くことに、すべてをかけて
そして、女性は美しければいい、そんなレベルではないと
宣言する、誇り高さは、ほんとうに、がつんと言われた
思いがします


芸術を志そうということは、こうした、誇りに基づいた
ことがなければ、いけないのだとの、生き方の教え、と言えるでしょう


「いいもの」「本物だ」というものに触れるとき
あこがれ、といっていい、こういうものを作る人の
心に近づきたいと、思います
そういう、まっすぐな気持ちを、少なくとも持って居ようと
思います。そうでなければ、誰かといっしょにいて
その人のために何かしようなんてことを、したら
かえって、だめにしてしまうのだ、そういう気持ちの
強さを持っていたい


生きるということは、階段を上り続けなければ
生きてることにならないのだ、そういう教えとも言えます


こうして、「生きる」ことのハードルを自分で上げる
それは、素晴らしいこととも言えますが、なんて、苦しさを
伴うことでしょうか

人が集まるとき

ビルのなかなどで、「空間を提供してる」そういうことを
思う場所があるのを、感じます
一定以上大きいビルだと、はいった、場所、1階だったり
そこは、エントランスホールだったりして、だれでもはいれる
空間になっています


そして、おそらくは相当な確率で、まったく自由に出入りできる
空間に併設されて、カフェがあるのを見かけます


カフェって、いいですね
リラックスして、お茶が飲めて、ときに人が集えば
談笑していられる、場所です。とっても都会的で
その場所がいいと、建物全体がいい雰囲気といっても
いいのではないでしょうか?


「ワールドカフェ」という、ワークショップの手法が
あります。あるイベントがあって、話し合いをしながら
お互いの意見交換をし、かつ、いくつかの事項について
「決める」ということが求められたということ。
とてもよくある、シチュエーションでしょう。
そういうとき、一番話し合いが盛り上がりをみせたのが
「休憩時間」だった、ということが、終わった後の
反省からわかったというのですね。


そこから、いっそのこと、カフェで休憩のときに
しゃべってるような、そのこと自体を内容の
中心にしてしまおう、そういう発想で
できた、ワークショップだといいます
瞬間的に、いいなと、感じました。そして、会社の
研修にとりいれたりしています


少し、状況などはちがうのですが、結婚式の2次会の
企画を何回かやったのです。結構知らない同志もあつまる中
なにか、するということを、盛沢山考えました
だれかが、しゃべるとか、歌を披露するとか
ゲームをするとかです
一方、あるとき、自分が全然企画なんてしていない
2次会に参加したことがあり、一切そんな、催しがない
「ただ、しゃべっている」2次会でした


あ、と気が付いたのです
なにがしたいかは、人、それぞれ。
しゃべっていればいい、適当なアルコールと
おつまみがあって、空間があればいい。
それはそれで、素敵な場所になってると。


「人が集まるとき」
どんなふうな、段取りで、「しゃべってもらう」のか
それとも、ゲームほかで、もてなすのか
それぞれ、よさがあって、集まる人、それこそシチュエーションで
変わるということがあります


カフェっていいなと、思っています
カフェで過ごす時間、結構、頭もさえてるし
いい発想がでる、そういう感覚があります
いいカフェ、みつけたいですね

プレゼンテーション

プレゼンテーションをトレーニングする
研修を行いました
やって、反省としてでたのが、人の前で話してる
その点では、いいところもでてる、ただ話してる
内容について、自分で意識してアピールをしたい
そういう観点でしぼりこまれているのか?ここが、おそらく
できていない、ということが指摘されました


東京の観光名所を案内するサイトをみつけて
そのことを、もとに、自分が実際外国人の人を
ガイドする、そういう内容のプレゼンテーションを
作ってください


こういう内容について、そこそこの成果をあげることが
できました。もっともそのサイトの情報に限らず
自分が知ってることはプラスしていい、そういうことも
つけています


絵本の内容を、案内してみてください
こういう課題をだしてみると
絵本について、十分、伝えきれない、そういう
姿が浮かび上がってきました


「しぼりこむこと」
そのまえに、アピールしたいということが
みつからない、という、現象があったりも
あるようです


自分がアピールしたいことは、なにか?
こういう点を掘り下げていくとしたら、自分のアイデンティティ
話に、掘り下げていかないと、おそらくは、方向が見えません
これは、別の機会にゆずりたい。


簡易な方法とも受け取られるかもしれませんが
拡大解釈という方法で、やってみて、ということで
このページは、言っておきます


今年の、当社、システマーズの年頭のあいさつに
「拡大解釈」をキーワードにしてみたいと書きました
たとえば、絵本。ある絵本は、クワガタムシを取りに行く
そういう内容を、とても色彩豊か、また日本の
田舎の豊かな、ところをたっぷりみせることを
しながらつづるものでした


拡大解釈。自分の虫取りの経験だとか
海の思い出、山、川の思い出をとりまぜる
だとか、そういう、「良さ」といったことを、
フォーカスする。そういうことが、できそうなこと
ではないでしょうか


ビジネスにおいて、基礎といっていい、プレゼンテーションの
あれこれ。実は本気でやろうとしたら、いろんなことに
つながっていくことに、気が付きます
本来、「学び」というのはそういうことですね
つまり、あることを磨こうとしたときに、いくつかの
つながりが見えて、また「学ぼう」とつながっていく
ということが、楽しいことでもあり、王道の学び方
といってもいいのではないでしょうか?


学びを始めたら、次、もっと「高い」なにかをみつけたくなる
そういう、存在に自分をしていきたい、と思います

美人画

上村松園美人画を見ました
いいえ、見とれていました


山種美術館にて、「上村松園美人画の世界」という
展覧会が開かれています。入ってはじめの部屋
「新蛍」「夕べ」という作品が目に飛び込みます


すだれのすきまから、のぞく美人
そういう似てる構図ながら、その体の線
表情、もちろん、髪型、髪飾り、着物
それぞれ、違いをだして、こちらをひきつけるのです


美人、ということで、顔に目がいくのも
あるのですが、立ち姿そのもの、また
すだれを使った、一部がみえていて、半分かくれてる
様子というのが、日本人好みであり、見えそうで
見えない、そういう、ところにまたひかれるのです


12月に、鏑木清方の、三部作、「大川端」「明石町」「新富町
をみて、美人画に大きく、気持ちが動きました
和服の女性の美しさって、なかなか、詳細が目に入るって
なかなかなかったのですが、今回は、かなり気持ちが動きました
そういう、ことがあっての、上村松園です


女性の美しさをうたった、絵、で好きな絵を思い浮かべると
洲之内コレクション、ポアソニエールを思い浮かべます
また、これも12月にみたのですが、横浜美術館
オランジェリー美術館の、ポール・ギョームコレクション、
アンドレ・ドランの「画家の姪」という作品です


どうも私は、透明感のある、ふわっとした
女性の存在がいいと思う傾向があるようです
そういう意味では、今回、上村松園の「新蛍」であり
また、鏑木の「新富町」にひかれるのは、少し表情に
含みがあるといっていい、そういう存在なのに?という
ことも浮かびます


それはどうも、単純な味付け、たとえば、塩味
しょうゆで食べる、お刺身を好んでいた人が
それより、複雑な味、それはなんでしょう?
発酵した味だとか、お酒をうまくつかった料理など
一段、仕事がしてある、料理に目覚めるそういうことと
近いでしょうか?


少し前のこのブログに、鏑木の新富町
マネの、フォリー・ベルジェールのバーを比べてみる
なんてことを、書いていますが、「新蛍」の表情は
そのどちらともちがう。また不思議な世界を
追いたくなる、そんな気持ちです

アルプスの少女ハイジから

もう何年か前ですが、ヨーロッパ、アルプスで暮らす
家族のドキュメントをテレビでみました
そこの暮らしは、とても、体力もいるし、自然とのいろんな
対話、ともいえるし、戦いともいえる、厳しいものが
でてきました
子供たちも、当然のように暮らすことに、いろいろします
牛の世話、放牧、道なおし、水汲み。大変です
ただ、母親はいいます。ここでの暮らしでは
アルプ力が身に付きます。町では決して身に着けることが
できない、生きる力ですと。


アルプスの少女ハイジをみていて、ハイジが自然の怖さ
動物たちとの交流、ときどきやりとりする、人との交流
そうしたことを、覚えて、自然と共生するように生きていく
これは、まさにアルプ力といっていいことでは
ないか?と感じます
日本でも、「里山」の暮らしの貴重なことを、思い出してみよう
という試みがあるのを、何回かみたことあります
畑があって、作物を自分で育てて、とれたてを食べる
作物を作るのは、簡単ではないかもしれないけど
買って食べるのでは、わからない、自然の素晴らしさ
そして、怖さ、そうしたことを、感じながら生きるという
生き方


都会での生活は、お金を使うということで
成り立ちます。そういう生活をしてる自分がいうのは
少し、ずるいかもしれません。だけどそれでいいと
なるのではなくて、ちょっと立ち止まって
はたして、そういうことばかりでいいのかと、思ってみる
そういうことも、あっていいかとも、感じるのです


自然との対話。そういうことを、ほぼなるだけないように
してる、都会での暮らし。それはどうなのでしょう
自分の体も実は、自然のいろいろと、つながってることを
忘れる行為になるように、思えてくるのです


料理が好きで、旬のものを、時間をかけて料理して
いただくということを、すると、少し自然に近づく糸口が
見える感じがします
先日の、そば打ち、そばをこねるときの水加減、湿度だったり
そのときの、その日のことで、微妙な調節をすると聞きました
そういうことに、敏感でいたいなと、思いました


寒い季節です。暖房をいれればいいや、となると
やっぱり、貧しい発想になります。寒い季節は寒い季節に
しかできないことを、して、体を整え、やがてくる
春に向かって、準備もかねて、生きる


日本には、季節があって、その季節を感じ、季節を抱きながら
生きるのって、潤いのある感じがします
生きてることを、肯定できる、そういうことにつながる
そう、思います

スローフードの楽しさ

昨年10月に、社員旅行にて、新潟県南魚沼市
農家であり、民宿の、和風いん越路さんに行きました


アスパラ菜、ピーナッツ、さつまいも、さといも
を収穫体験です
鮮度の抜群の野菜って、こんなにおいしいんだ
そういうことを、知ってほしいと思っていました
あわせて、越路さんから提案してもらって、楽しんだのが
餅つきです


実際、社員で餅つき、はじめてだったという人も
たくさんいて、盛り上がりました
ここらあたりのやり方はね、といって、手合わせが
ないのですよ、と、言っていました
実際、3人で小さ目の杵をもち、臼を囲んで
ぽんぽんと、まわしていくようにつくのです
つまり、もちがのびてくっついたところを切ると
いうのですね
なかなか、うまくはいきませんが、何回かは
当たって、ああ、なるほどとか、楽しみました


餅つきって、実際やったりすぐそばで、見たりしてると
お米が(もちろん、蒸したもの)だんだん、つぶつぶが
みえなくなって、餅になっていく過程って、とっても
いいんです。ふっくら、もちもち、焼き立てのパンが
やっぱりほんわか、ふっくらして、なんとも気持ちが
豊かになるといったらいいか、いいものがあると
思うのですが、餅はまたそれが、ぐーんと
あがるといったら、少し、餅つきとか見てない人も
想像できるでしょうか?


今年、知り合いが集まって、我が家でそば打ちの会を
やりました。↑に書いた、お米が餅になっていく
これに、似てる感覚が、そば粉がだんごに
なっていく過程です。そば粉、つなぎの小麦粉を
あわせて、水をいれながら、こねていくのです
少しずつ水をいれて、こねてこねて、「耳たぶ」
くらいまで、こねるといいます
なかなか、力仕事なんですね。


しろうとが集まったのですが、皆さん、50代以上
でも、元気だし、そばができていく過程っていいですね
おしゃべりしながら、硬さはこんなものかなとか
のばして、めん棒でくるくるまきつけてのばして
なんてやっていくうちに、ずいぶん薄くなり
これを、切れば、おそばができるんだ、と思えてくるころに
ずいぶん、みなさん「ノッテ」きます


餅つきにしても、そば打ちにしても
手間暇はかかる、また一度にそれなりに、多くできますから
人が集まる必要もでます
逆にいえば、大家族であり、人が集まって、助け合って
暮らしていた、時代には、そうしたことが普通にあり
そういう、手仕事のなかで、コミュニケーションも
豊かにとれていたのが、想像できます


コミュニケーションは、すべての基礎になる
そういうふうに感じる自分には、もし私が感じたように
餅つきもそば打ちも、コミュニケーションを深める
いい道具だし、素晴らしい時間だとなれば、使わない
なんてもったいないですよね