じゃがいも

メグ・ライアントム・ハンクスの映画、「めぐり逢えたら」
のセリフに、「ポテト・ファミリー」「ライス・ファミリー」
というのがでてきます


日本人の私たちは、おそらくは相当な割合がライス・ファミリー
でしょうね。そう思うと、その相対する言葉として、ポテト・ファミリーが
でてくるって、すごい、じゃがいもってすごいとも、思います


私の好きなじゃがいもの料理
ポテト・グラタン、コロッケ、塩煮いも、かな


ポテト・グラタンは、我が家の定番になって、もう相当たちます
これ、テレビでした。日本人がドイツの家庭におじゃまして、その
おうちの、家庭料理をいただくといった、セッティングでした


じゃがいもを、皮をむいて、できるだけ、うすくスライスします
そのじゃがいもを、オーブンにいれられる、うつわにならべて
ちょいと塩、ピザ用のチーズ、牛乳、生クリームで重ねていきます
オーブンで30分、その時点で一回水分をすてて、さらに30分
このポテト・グラタンの豊かな味わいは、ぜひ知ってほしいです
家族と、また親しい人と、いっしょに食べたい料理です


ときどき、食べたくなるのが、コロッケです
ずいぶんまえに、このじゃがいものコロッケは、日本人独特の
工夫だと聞きました。作るのは、シンプルな、じゃがいもに
玉ねぎとひき肉を炒めたものを、混ぜた、ものです


じゃがいもコロッケに、ひかれるのは、なぜでしょうか
そして、これ、もちろん、売ってるのもあるのですが
自分で作りたくなるのはなぜでしょうか


売ってるけど、自分で作りたくなるもの、それは、ぎょうざも
いっしょです。どうやら、作り立てのおいしさを味わいたい
ということ、さらには、ぎょうざ、コロッケに共通というと
なにかを、包むということが入ってるということと、思います


料理で、包むという行為は、とても、ポイントになるな
と、思ったりします
包むというところ、性格がでたりします
私は結構、いいかげん。大きさとか包み方とかいろいろに
なっていいや、と、やります


じゃがいも、は、庶民の味方ですね
そうした、庶民の味にこそ、おいしいものがあると思います
高い、食材、珍しい食材を使って、レストランでいただく
ものは、たまには食べたいとは思っても、いつも食べてる
豊かなものがあって、たまにはいいということになると
感じます


料理が好きになって、どうも、「好きになる」ということ自体の
やり方が、うまくなった、とも、思います。料理はただ、食べる
より、作ったほうが、より楽しめる、さらには、盛るうつわにも
ちょっと気を配ったりすれば、楽しさが広がります
さらには、うつわが、いい感じの空間になるような、部屋の
感じは、とか広げていくと、楽しみはずっとずっと、大きくなるのを
感じるのです


人間、やっぱり生きていて、よかったなに、会いたい
そしてできれば、自分のまわりにいる人に、ああ、よかったなと
喜ばせたい。それを知ったら、人生何倍にも、楽しめる
そう気づいて、年齢を重ねるって、いいことだなと、思うこのごろです

ピンチをチャンスに。9月7日

感染症のことで、予定したことができない
このこと、もう何度あるでしょうか?
いろんな人、いろんな組織が、「機会損失」ということが
起きて、その貴重な時間を予定どおりできないことで、
「出会い」だったり、「気づき」が減るということになります


あまり、多いので、しょうがない、とも、思えてきますが
いいえ、やっぱり、ピンチをチャンスに変える努力が
必要だと、前向きに考えたいと思います


高校時代に、そのころ、尊敬していた先生が「自由とは」
という話をしました。「自由であることは、なにか物理的な
条件ということでなく、精神が自由なことである、人が
自由になりたいと、どれだけ真剣に強く思うか
その精神が強く意識されてるとき、自由であるといえる」
そのような趣旨で、授業をされたことを、思い出します


エッセンスを、拡大解釈すれば、学びたいということは
その気持ち、意識が伴ってほんとうに、身になっていくという
ことがありそうです
学びたい、学ぶというのは、自分の真剣さによって、その深さが
変わるといっていいでしょう。その真剣さによって、気づきが
どれだけあり、気づきから、行動に移す、その連携も
高くなるといっていいのではないでしょうか


もし、そうであれば、感染症で、会う機会が減る、表面的には
なにかをして、いっしょに学ぶという機会が減ってはいますが
そこで、機会がほんとうに失われているからこそ、「学ばなくては」
という原点に立ち返り、自分の真剣さを、高める、それが
必要で、いま唯一、このピンチを、なんとか切り抜けていく
道筋になるのではないでしょうか?


ピンチをチャンスに変えたい
自分が10代だったときに、ときどき、言われたことが
あります。年齢が二回り以上うえなら、その人は、第二次世界大戦
という、戦争のなにかを経験していました
言われたことは「君たちは、恵まれている」「恵まれすぎてるのだ」
ということでした


二言めには、まず「食べる心配がない」といって
そんな日は、自分たちのあなたと同じ世代にはなかったと
言っていました


その、環境におかれたこともない、ましてそのほかの経験
ということが、ほとんどない、10代の自分に、ありありと
その空腹が続く状態を理解、といっても無理がありました


不自由なこと、コミュニケーションをとるというのが、絶対的に
減ってること、学びがおろそかになること


ほんとうに、こわいことです
だから、そのこわさ、異常さということを、感じてるなら
そのことを、認識のスタートとして、なにかしなくては
状況は悪くなるほうへ、ばかり行くのです


学びましょう。学ぶために、仲間とつながりましょう
不自由だから、貴重な、時間も作れる、そのことに気づきましょう

時代が変わっても、変わらないものをみる

昨日、30代で経営者の人と話していて
私が、10代である、1970年代、80年代というのは、未来
自分が貧しくなってしまうなんて、想像は一切ない、就職して
給与をもらうことで、豊かになっていくと、漠然と思えたし
(国が)経済成長もしていて、それは続いていくものと
信じていたという話をしました


実際、経済成長していないし、中国に経済規模ということで
ぬかれてしまうし、日本の製品というのが、海外でどれだけ
売れてるか??ということも??な、今、未来が明るいと
思えるのか?


今の10代、20代の人に明るい未来を想像してみようというのは
ずいぶん、「乱暴な」話ともならないか?


そうともいえると、認めていながら、一方で、若い人というのは
未来を信じて、自分のいろいろがよくなっていくということを
信じてこそ、若者らしい挑戦もできるし、若者らしい
なにか新しいことしようという意欲もでてくると、思うのも
事実です


世界中に、モデルがないということも、気になります
少子高齢化ということが、言われてずいぶん長くなりました
この少子高齢化は、今後世界中でふえると、予想します
ある統計では、1965から2015の50年の間に、乳幼児2歳までの
死亡率というのが、15%から3%と、1/5になったというのを
みました
これはなにを、意味するか?
子どもが死なないゆえ、数多く子供を産むのをやめる
ということになります


日本では少子高齢化が、ずいぶん人口減少の原因と
何かネガティブにとらえてる傾向があると思いますが
これは世界中で起こる、とめられない、こと、と、まずは
受け止めることからはじめないと、いろんなことが、うまく
いかないのだろうと、感じ始めました


むしろ、日本は、「課題先進国」として、子供が少なくなるという
事実をどう、問題というより、いろいろやって、その課題に
向き合うかということが、求められるでしょうし、またそれは
どうにも避けられない、ということに、早く気づくべき
でしょうね


批判めいたことを、書いてると、感じた人には申し訳ないです
ただ、なにもやってない、わけではないつもりです
少子化ということで、人と接するということが、減って
社会人になったという若い人に、いかに人とうまく接するか
チームビルディングはどうする?どう、話し合うといったことは
微力ではありますが、意識して、取り組んでいます


この2年くらい、テレワークをしなければ、なりません
テレワーク、いいところもありますが、難しいことはあります
その難しいことの、入り口、ここがまずは大きなことと言っていいと
思うのですが、コミュニケーションが減るのです
なにげなく、話してるという機会がどんどん減るのです


このことは、少子化と、くっついて、たとえば、人と会うとき
みだしなみを整えるのって大事だとか、そういうことが、おいてけぼりに
なります
挨拶って、やっぱり、大事だとそう感じる機会が減る。これだけでも
自分をみつめる、というチャンスを減らします


時代は変わります
そういう中、変わらないこともあります
例えば、人間、ひとりでは生きられないのです
チームで乗り切る。そうしたとき、自分のことをいかに
信用してもらうのか?信用してもらおうと、声をあげる
先頭にたつといったことは、どうしたら、できるのか?


時代が変わっても変わらないことに
いろいろ、できる、自分でいたいですね

マリア様

5年くらいまえだったと、思います
フランス、パリにある、有名なノートルダム寺院、この
ノートルダムというのは、聖マリアのことだと、書いてある
新聞の記事を読みました。そして、パリのここだけでなく
フランスには、ノートルダム寺院があるということも
書いてありました


聖マリア、が、教会の名前としてほしい、なかにはおそらくは
マリア像があって、それを慕う人から「マリア様」と
拝んでもらったりする、ということだと思います


一方、日本で、観音様というのが、いろんな場所で、信仰の
対象です。観音様とマリア様、いっしょにするのは、乱暴と
思いつつ、「母なる」ものを、求めて、拝むというのは
共通なものがあると、感じるのです


宗教のあれこれを、ここに書くほど、勉強もなにもしていない
です。ただ、疲れたなとか、ちょっとまいったなというときに
母なるものを、拝んで、ああ、ありがたいと、やりたいのは
なんとなくは、ああ、そうだろうなと、感じます
そういうことで、いいのだと。それで、まるくおさまって
まあまあ、となるなら、いいのだと、そんな感じがします


世の中で、いろんなことを、やっていると、どうも人の努力では
どうにもならない、ということがあるように、思います
一方、いろんな巡り合わせで、ありがたいと思うこともある
理屈では、どうして?ということが、説明できないのだけど
あ、信じられないけど、うれしいとか、びっくりとかが
ある。それも、「神様のおかげ」と思ってることが、なにかしら
人のいろいろが、及ばないことがあるのだと、思ってることが
まあ、あったほうがいいと、感じます


人は、限界をもってるものです。人は、なんでもできると
そんなふうに、奢ったとも見える、生き方をするのは、あまり
よろしくないと、思うのです


人間は、生かされてる、だれかが、助かるような役割を、自分でも
努力もするけど、神様が巡り合わせてくれて、そうさせてくれてる
そう思ってるところがあって、どうも、バランスがとれるということに
なりそうです


パリには、ルーブル美術館オルセー美術館とあって、人々が
「美」を求めて、ずっと生きてるという証がありました
美とはなにか
美、とは、千住博さんは、力強くいきることと、説明します
羊が大きいと書いて、美。
生きることにつながるのです、と、説明します


人間には弱さもあって、へこんだときは、マリア様と拝む
ときがあっていい。でもそうでないときは、自分で自分の生きる力を
たくわえ、またそれを発揮し、力強く、美しく、生きるというのが
求められます。そういう生きるということを、して、ときには
マリア様の下で、休むのもいい、そういうことを、教えてもらった
ように、思います


生きてるということは、それだけで、すごいことだと、ときに
思い出している、そういうことが大事です

人と仲良くなりたい

共通の興味の対象を、もつということが
基本です。たとえば、同じスポーツのファンだったり
すると、自然に仲良くなれるものです


そうした、触媒といっていい、あること、が仲介を
して、共通の思いだったり、感じ方をできるということが
親近感を深めるということが、あります


ついこの1か月以内のことです
同じマンションの人と、街でばったりあったのです
正確には、同じ店が好きということがわかって
ランチの時間偶然いっしょだったということになるのですが
それだけで、親近感はぐっとましました


それはいくつかの意味があります
同じその店、蕎麦屋さんですが、好きという
ことで、味覚において、共通点があるなと
わかったということ、それから、その偶然会った
そういうことを、お互いがうれしく思ってる
そのことで、お互いを好ましく感じていたということが
証明されてるといったことも、ありますね


触媒ということが、あったほうがいいという
観点からいうと、色んなものが好きなほうが
人と仲良くなれる、要素がふえるといっていいかも
しれないです


料理するのが好きです
料理するのが、好きな人とは、仲良くなれそうです
2年前くらいだったか、「オテル・ドゥ・ミクニ」の
三國シェフという人を最初はテレビ、そのあとネットで
知るようになりました
「プロ」ですね。そうだからとも、思いますが
生き方として、料理の道をすすんでるなと、感じるほど
料理を愛してるし、料理を通じて、人を幸せにしたいと
思ってると感じました


そう感じたのは、自分もなかば、そういうことを思うからです
もちろん、プロほどのウデも、実績も、なにもないのですが
思ってることは、似てるのです。思いが似てるゆえ
三國さんの言葉だったり、振舞いは心が動きました


人と仲良くなること
自分はこういうことが好きで、こういうことをいっしょに
したい。そういうことが、わかってる、その道を進んでる
そういうことが、まずあって、そのなかで、触媒と
なるものがあって、人と仲良くなる
それがいいのだと、思います

急がば回れ

たとえ、回り道だみえても、手間暇かかることをやるのが
いいことだ。そういうやり方をやってきました


スローフードという、食べ物が、いいものだと、認識が
ひろがってるといいます。ファーストフードの反対ですね
食事を、手早く、安く、ということで、ファーストフード
たとえば、お湯をかければ、食べられるそば、だとか
ドライブインで、車のなかで、注文し、車で受け取るハンバーガ
なんていうのも、そうでしょう


もちろん、今、日本でなくなったら、大変だと思うのが
コンビニ。若い社員と話していて、びっくりするような
割合の人が、コンビニのごはんが、日常ですと、言っていたり。


スローフード。信州の村で教えてもらった、塩煮いも
だったり、きくらげの煮もの、ぜんまい、花豆など
どれも、水でもどしたり、ゆっくりゆでたりして
手間がかかる。だけど、繰り返し食べて、食べ飽きない
そうした、安心な味になっています


回り道をしても、いいと思ったらやる。
そういう姿勢でやってきました


新卒採用。当社の存在意義のひとつが、新卒採用だといっていい
かもしれません。中小企業で、毎年、新入社員を迎える
ということ。このこと、たいへんなことですが、素晴らしい
ことでもあります
先輩が、後輩を教えるということ。たった、これだけかも
しれないですが、一定の品質を伴って、先輩がソフトウェアを
作るということを、後輩に教えるということは、とても
教育的効果が高いです。教えてもらうということも
そうですが、教える、というそのことに、ついて
教育的効果があります


人を指導するということが、すばらしく、教えてるその人本人に
いい効果があると、わかってきました
そして、教えるということ、どこまでやるのか、によるのですが
仮に、相手のやる気を喚起するだとか、責任感をもつ
ということも、踏み込んで、学んでもらうとなれば
「姿勢」ということが、大事になります


姿勢を教える。技術者として、あるべき、取り組み姿勢ということ
こうなると、まさに、自分自身の生きる姿勢にまで、考えが
及ぶということになろうかと思います


教えることで、自分自身の姿勢が問われる
こうしたこと、実はとても、自然であり、生きる糧を得ようという
技術者として、どうするということがあるとすれば、「避けて通れない」
道なのだと、感じます


急がば回れということ
友人のことを、思います
誰か、友情は、成長の遅い植物だと、言った人がいましたね
学生のころからの付き合いだったりすると、50代、60代に
多くの友人がさしかかってきました
子どもが育ち、自分と相対しなくてはならない、とき、といっても
いいかもしれません


人間は忙しい日々を送ってると、「いつかやろう」といって
先延ばしにしていて、それでも、忙しいからと、思っていられることが
あるように、思います。友人とのあれこれは、そうなのでしょう


急がば回れ
いいことに、違いない。忘れたくない、姿勢です

twitter

twitterというツールをよく触るようになりました
仲間をみつけるということに、とてもいい、ツールだと
いえそうです。


リツィートという機能があります
つまり、このツィートいいから、いっしょにみてみて
という感じです
知ってる人は、知ってるのですが、この機能があるから
数時間で何万人、いえもっとかもということで
いろんなことが伝わり、ちょっと、こわい系の話でいえば
デモとかにも、利用されてるということですね


かわいい系の話でいいますと、映像がかわいいとかで
リツィートされて、何十万というアクセスになった
なんて話も、聞きます


もっと、リツィート、使えないかなと思ったりします
ただ、自分がいいとか、思うことに、人がどう反応するかって
わかるようで、なかなか、わからないな、と思ったりします


自分のことでいうと、「リーダーシップとは」
であるとか「社員の成長」といった、ことに、自分のなかで
アンテナがたっていますから、そうした類のことには
良く反応するし、いいねもするし・・・
そうなのですが、たまたま知り合った人というのが、同じように
反応するかといったら、もちろん、そんなことはないのです


まして、デジタルでつながってる、だけとでもなると
感覚は「ちがうのがあたりまえ」から、スタートしないと
うまくいきません


ある感覚を、共有した人のみの、グループなどあれば
ちょっとだけ、感覚共有の楽しみはあるかもしれないですが


リツィートというのは、そうそう、うまくつながらない
ということもありそう、なのですね


「仲間を作る」ということに、有効と書きました
仲間というより、知り合いかもしれません
仲間というには、つながってる接点が少なすぎるということ
になりそうです。だから、「ゆるく」つながってるということが
やることと、なりそうです


デジタルの、SNSなりでは、ゆるくつながってるということが
ひとつの前提と、いったいいと思っています
そうでない、ちょっと、しばりのある関係に移行したいなら
デジタルから、リアルでもしっかりつながるということが
必要だと思います


ゆるくつながるというのも、なかなか、いいときもあります
だけど、「責任」が生じるような、なにか、に、踏み込むのなら
その責任を、どう分け合うのかということについて、わかるように
リアルで、明文化するとか、するというのが、お互いを守る
ことになります


だいぶまえですが、自分のwebのページ、それに近いですが
ちょっとゆるい、ブログ、そして、SNSなどを、どうつかうのか
ということを、ちょっとした、知り合いのなかで、話したことを
思い出します


やっぱり、一定のところ、踏み込む、つまりは、関係をもつ
ということなら、どうしても小さくても、責任はでてきますね
そのことを、みつめておくって、大事なのですね