人間の可能性は
ものすごく大きいと思っている
例えば
世代
性別
環境
国
そういう、その人を育てた大きな要素が
変わったとしても
「理解しよう」という姿勢が
あれば、わかりあうことはできると信じる
でも、そもそも「理解しよう」という状況は
なにかしら
ずれとか、ある意味相手の差の大きさに
どうしようかなと感じるときに
「理解しよう」なんて意識するのだ
逆にいうと
あらためて「理解しよう」と意識しないで
いい状態は、とても
いい、というか貴重なんだと感じなくては
いけないのかもしれない
言葉をつくして話す
一度であきらめず、日をかえて思ってみる
小説など、相手の環境が想像できる
情報を得る
想像力をやしなう
そういう努力で
理解しあえることは可能だと考える