何でも学校

灰谷健次郎の「天の瞳」という作品のなかに
休日に主人公たちが催す、「何でも学校」というのが
ある。いわば、普通の学校のつまらない授業への批判を
裏返して、こうだったら楽しい学校だということを
実践したような、授業
例えば・・・
チンパンジーの子を、自分の子供のように育てたということを
実際自分でして、それを語る動物園の飼育係とか、オブジェとか
現代アートという言葉にすると、なにか大仰なのだが、工作作りが
ほんとに好きで、ついに大人がみても圧倒されるような動く、
きらきらした、オブジェを作ってそれをまた子供といっしょに
作るというようなことをする人とか、はたまた、料亭の料理人で
ヒラメの刺身を子供といっしょに作っちゃうとか


この何でも学校の魅力は、本当に魅力のある先生が先生をしている
ということだろう。まぎれもなく「大事なことはなにか」をしっかり
つかんで、「生きる」ということを、大事にしてる人は、子供と大人とか
教える側と教えられる側とかに、しばられるのではなく、人間は
どう生きるのかということを念頭に、想像力豊かに目の前にした
人、それは大人でも子供でも、その人と向き合っていくのでは
ないか


この場面を読み返していて、47歳になって、ずっと(一応?)大人を
やってきた私は、こうした何でも学校の先生になれるだろうか?
と自問自答する。うう・・・答えはちょっと否定的になってしまいがち
自分は、きわめて限られた世界かもしれないけど、ずっとやってる
「営業」の部分では、少し人に語れるものはあるつもり
それでも、それはなんというか例えば前提がなにもない状態で
はじめて会う人になにか伝えられるだけのなにかがあるのかというと
うーん、難しい
さっき刺身を作った料理の世界の人。はじめて包丁を握るという子供と
いっしょにいて、まがりなりにも、いっぴきの姿ものの魚から
刺身を子供に作ってもらうところまでいっちゃう
そして、その過程が、わくわくするように楽しいのだ


またひとつ、目標ができた
人に伝わる、なにかを持ちましょう。
さあ、大変?いやいや・・・?