成長とは

灰谷健次郎の「天の瞳」のなかで、主人公の協力者のひとりに
不動産の経営者で、PTA会長なる女性が登場する
彼女は、早くいうとボランティアでフィリピンの親のいない
少女を育ててる
彼女はいう。私はべたべたしたのは嫌いなんだ
だから歳をとったら、自分の面倒をみてほしいとか
自分の後をついでほしいなんて気持ちはこれっぽっちもない


じゃあ、なぜ?海外の子供の面倒をみたいか?
「負うた子に教えられ」という言葉がある
自分が育てたと思っていた子に、教えられるということが
世の中にあるらしい。どうも自分でもそうなんじゃないか
と思うことがある。自分は子供がいないけど
これから、まだまだ成長したい。教えられてみたいのさ


成長ということは、そのまま、「生きてる意味」といっても
いいかと思うことがある
このことをずっと思っていて、今朝思い出したのは
たった3週間だけど、ロンドンにホームステイして
ホストファミリーの彼がつぶやいた
こうして、若い、外国のかたと交流ができるのは
“educationable”であると


ここのところで、思っているのは社内において
自分が指示をだしたりする、メンバーの成長を
感じると、自分がとりのこされないように、ステップアップしよう
という気持ちになる
このブログでも何度かふれているが
たとえば、「文章の書き方」
やはり真剣に「マネージャ」として仕事しようという
メンバーは、ドキュメントにおいても、どうしたら
わかりやすく、品質があがるのかと心くだいているので
文章もうまくなっていく
そうなると、自分もうかうかとしていられない


こうしてブログを書いていて思うのは
文章というのも、いわば、自分の状態がでるものだという
こと。だから、表面的にはともかく
いい文章を書く、書ける状態というのは
仕事、プライベート含めて、自分がいい状態で
またきっと、成長し続けていることが条件になる


今日も、ちょっとだけでいい、成長を感じて
歩こう