荻原碌山

アートを見るのにあたって
アート、作品そのものももちろん見るのだが
作家の生き方、人柄にひかれていくという
ことがある
これは一般的なのかもしれないけど
なんか、その傾向が私は強いように思う


荻原碌山、このブログにも何度も書いてる
彫刻家
生家のすぐ近く、お世話になってる先輩のつれあいとして
出会い、そして、惹かれ、生涯思い続ける人
その人相馬黒光も、その思慕に気付いていっしょに
平安時代の人、文覚の生き方をみたりしている


芸術で、恋愛感情を昇華させるという、すごさ
それは、言葉で書くと、きれいな美談のように思われる
もちろん、そのすごさ、美しさに心打たれるのだが
実際そうした生き方というは、当の本人は美しいとか
そんな生易しいものではないだろう


異性を思い、思い続けるエネルギーというのは、大きく、激しく
とても言葉、理屈では書ききれない感情で、そのまっただなかに
いると、苦しい。
荻原碌山は、生きるそのことを、相馬黒光への思いのなかに
見出したのだ。人の妻だろうと、その思う心が真実なら
思い続けよう、そしてその思いを感じていて、自分の気持ちを
しっかりおさえてる相馬黒光その人も、絶作「女」を見て
これは自分だと直感したという


こうした、心と心の「ふれあい」というより激しいスパークと
いっていい、エネルギー。そのイメージは、いまなおきっと
「女」を見る人の心を、リアルにゆさぶる
だから、その魅力にひきつけられる


芸術に、恋愛感情を昇華させるだけの、器があるのか?
いいかえると、芸術で生きるということの答えを見つけられるのか
それは、碌山がどう思って死んだのかということで
想像してみるのはどうなんだろう


安曇野の美しい田んぼのまんなかに、大きい石碑の碌山の墓が
あった
今年で101回忌を迎えたという墓は、新しい塔婆があり
いまでも慕う人の墓参があるのを感じた
人は誰でも、生きるということに迷い、悩むのでしょうか
それなら、悩みながら、なにかしら意味あることに
挑戦したいものですね