ケニアの人の話

ケニアの人に話を聞く機会がありました
野生動物がケニアにはたくさんいるという話
国立公園があって、保護されてるそうだ
そんな話で、象は40日間、仲間が死ぬと弔うという
話があった


ふーん
象は長生きなのは知っていた
この話を聞いて、まっさきに思い出したのは
ローレンス・ブルギニョン作、ヴァレリー・ダール絵の
「だいじょうぶだよ、ゾウさん」という
年老いた象とねずみの絵本
ここで、くどくどとは書かないが、いっしょに暮した人の
死という、大きな悲しみに、向き合うことの大切さを
描いてる


実際40日間、悲しむという象
その不思議さに、思わずこのことって、どのくらい認知されてるのかって
いつものくせで、googleにて“象 弔う”といれて検索してみる
そうすると、象は仲間を弔うという記事はたくさん
でてくるけど、40日間悲しむというくだりは
みつからない


ふーん


死ということが、軽く扱われてるということは
何人もの人、マスコミに言われてる。もうずいぶん前からだ
弔うということでいうと、灰谷健次郎の「天の瞳」において
中学生(これは設定として、昭和40年代か50年代だと思う)に
湯灌を知らないのか!と近所のおばさんが怒るシーンがある
そのこととは、またずいぶん変わるものだと思うが
数年前の映画、「おくりびと」では、死化粧をして、棺桶に
おさめる仕事がとりあげられ、主人公もその仕事に
はいるときに、とまどい、自分の仕事をかくしたりする
そして、おおかたの対応はそうなのかもしれないが
女房にも、親友にも、なんて「恥ずべき」仕事なのか
やめろといわれるのだ。もっともストーリーが
進むと、周囲に理解者がでて、本人も自分の父親の死に向き合う
ことで、自分の仕事に、一定の納得を得ていくということは
あるのだけど


こうしてみると、たった30年?といっていいかどうか
わからないけど、私が少なくとも生きてるこの時間において
死に対する、といっていいか、少なくとも弔いに対する、認識などが
どうも、ずいぶん変わってると思う
最近よく聞く、家族葬というのもそうだ
葬儀って、葬儀屋さんのいいなりにお金をかければいいものでは
ないかもしれないけど


人の生活がどんどんバーチャルなものに占領されていってる
証の話なのかもしれないと思った
そんな意味でも外国人のまったく違った環境で
暮らしてきた人との会話は、大変有意義なのかもしれない