手紙を書くことで

連休があって、奈良県のいくつかお寺や遺跡をまわってみた
旅にでかけると、親しい友人にはがきを書いてる
今回も書いてみた


古い古い仏像をみていると、自分の中をのぞいている
ような気がしてきて、いわば、自分を客観視するということに
つながっていくような気がする
そんなコメントを書いた


奈良時代とか、飛鳥時代とか古い仏像は、アルカイックスマイルというか
つまりは、「神」としての存在という位置づけに思えてきて
それはそれで、すばらしいのだけど
存在は遠い


そこへいくと、運慶ら鎌倉時代に新しい作り方
新しい表現で、仏像の世界を変えたといっていい、その人の仏像
なにか「人格」があるようにみえる
つまりは、日本人のというか自分たちの顔に近づいた感じがして
その顔が、語りかけてくる感じがした


そうしたことを、手紙に書こうとすると
これはなかなかやっかいなもので、言葉というのは
使いかってがなかなか難しい
表情の妙
そういった、微妙な自分が感じたことを
ことこまやかに、描写するには、言葉ってなかなか
難しいのだ


特に親しくしてる人へ書いたはがきに
その仏像はいい
そのひとことで、あとは想像してなどと、ある面ぞんざいな
書き方をしてしまうのだけど
おそらく、仏像を見たりということが好きな人なら
イマジネーションが助けてくれて、いろいろ
こちらが感じたことを、思ってくれるかもしれない


このまえは、手紙を書くということを
自然に出会ったときの感動をという、サンプルで書いて
みたけど
そうした圧倒的な感動ということも
いいけど、もっと静かな、じわじわとくる
思いをこめて、手紙を書くのもいい


古い仏像の、深い表情をもっとこちらも
受け入れるというか、こまやかに味わうことが
できるように、自分を鍛えたいと思った