森光子という女優

昨日、テレビにて11月10日に亡くなった森光子の追悼番組を
みていた
しっかり、友情で結ばれていたという、数々の仲間から
その存在感のありがたさ、大きさを語る言葉がでた


メインで登場していた、米倉斉加年
女優は、いくつになっても、「娘役」をできるように
しなくてはならないと聞いた、という
そして森さんはまさにやっていたと
2000回を超えるという公演を重ねたという、放浪記を見る
このとき、80歳かという年齢なのだが、確かに若い女性を
演じきってる


演劇ということの観点でいうと、森さんを主役で演出したことの
ある、演出家が、何度その役をやってもそのたびごとに、新しく
発見をして、いわゆる「慣れ」を感じさせない。それがすごいと
語ってる
このことは、おそらく俳優として、とっても高い賛辞だ
まえにこのブログにも、ペレジヴァーニエという言葉の例として
その役を演じるときに、その人生に共感して生きた演技ができる
というようなことを書いているが、まさに
何度、同じ役をやろうと、そのたびごとに新しく
演じられたらすばらしい


放浪記の物語は、前半はまさに貧困との戦い
学生のときに、ゼミの先生がいっときまでおそらく昭和30年代とか
40年代くらいまでは、そうだという仮定のもと、結婚するということは
女性にとって、「食っていけること」と、同じ意味があったということ
をはなしておられた


実際、私の年代だと、食うことに困るという経験がない
だから、親から、お金をはじめ、ものを大切にしないと
よくいまでも、しかられる
まさに、どうやって食べていこうということが、どれだけ
大変なことか、わかってない、とつきつけられと
まさに、そのとおりですと、いわねばならない


放浪記が書いてる、林芙美子は、生きるのに必死だ
その必死さに打たれる
けれど、このブログに書いたようにあ、アルプ力のような
さわやかさ、きれいさはどこにもない。みじめで、自分の
きたないところと、向き合い、まさに生きるというなまなましさが
ある、芝居だ


実はこの、なまなましい、必死さということが、必要ということが
前にでてくるときというのを、さけていては
やっぱり、生きていけないと思うことが何度もある
できれば、人間、食うに困らず、かっこよく、生きていたいもの
ところが、どっこいそんなに人生甘くない


森さんは、演じることで、人生を語った方と
感じた
俳優も、ビジネスマンも
いいえ、ただの女も、男も
なまなましく、生きて、生きて
生き抜いて
そのたくましさで、切り抜けていく
そういう人生がいいじゃないか