日本人が思うふるさと

愛知県半田市にある、新美南吉記念館に行く
建物がすごく立派。それも環境に配慮して
高いものは立てず、半地下の形でゆったり作られてる
そのコンセプトはおそらく、ポーラ美術館や、横須賀美術館
共通するものがある


ごんぎつねの、そのまま風景があったという矢勝川のほとりに
あり、今年、生誕100年ということで、大きな手作りのゴン
(おそらく竹で作った)が迎えてくれた
生誕100年ということは、私のつれあいの祖母が生きていればた
100歳なので、同じ歳、また私が生まれ育った家にいた母方の祖母は
二つうえということになる


そのくらい歳の近さを思いながら
「ごんぎつね」や「てぶくろを買いに」といった
なんとも、あたたかさにあふれた、童話の世界に
はいってみた


新美は日記のなかで、100年後に自分の書いたものが人に
何かを伝えることができたら、いい。そのときこそ
自分の真価を発揮できたと言えるのではないかといってる
これは、このブログにいつか、「あずみ」のなかででてくる
あずみの恋する仏師の青年が言う言葉に重なる


こうした心意気は、いい。つい先日も書いた、目指すビジョンの
話にも重なって、そうした文学者としての高みをめざすというところが
すがすがしいし、実際、教科書にのったということもあるのだが
多くの人の心をうつ作品にはちがいない


ごんぎつねの、重要な登場人物の「兵十さん」のモデルという
実在の人の話があらい、それから新美の親友からの話として
小川にかける、網の使い方を調べていたという話があった
新美は身近な人や風景を、ストーリィにしていく名手という
こともいえると同時に、新美は自らの生活そのものを、語ったのでは
なくて、まわりを観察して、それをたよりに、イマジネーションした
といったほうがいいだろう


こうして思うと、新美のイマジネーション、ストーリィテラーとしての
才能は確かに素晴らしいのだけど、ごんぎつねやてぶくろを買いにに
書かれた、里山の暮らしや、日本人の心、日本人のふるまいといった
理想化されたものは、あくまでもイマジネーションのなかに
あるといってもいいのかもしれない


いま、里山は守る人がいなくなった
マンションは、高僧なもの、そして斜面にも芋虫のようにその姿を
さらし、風景をこわし続ける。環境もおかまいなしに見える
人々は、働くのが、まるで集団皿回し状態などと呼ばれるような
いそがしさのなかで、くるくるまわってる
なにかおかしい、と思いながら、止まることができないでいる


日本人が思う、理想のような、日本の良さがあるものは
文学のようなイマジネーションのなかだけになりつつあるのだろうか
そうでなく、血の通った、自分たちの生きる場に残していきたいと
新美の祈念館を見ながら思っていた