人の感覚

先週はなつかしい仲間とワイワイお酒を飲む機会があって
そんななかで、ちょっと「あ、ちがうな」と思うような
場面にでくわした


あ、ちがうな
笑いのつぼがちがうな、大事だと思ってることってちがうな
人それぞれ、あっていいことなんでしょうけど
かつて、仲がよかったから、どうもちょっとショックだった
そして、そんなことに、ずっとこだわってるのも、大人げないのであるけど
思い出すと、仲がいいといいながら、感覚の差って歴然と
まえだって、きっとあったのですよ


仕事をしていれば、いろんな人に会う
そんな後から、後から増えてく人間関係でいえば、感覚の差が
あるのは、ある意味あたりまえだし、ちがうなって思ったって
ああ、残念だなんて、1日たっても覚えてるなんてことはしない
数分後には、ちがうことを考えてる
ところが、十代にあった、仲間だから、いっしょのはず?わかりあえる
はずっていうのも、なんか思い込みがあって、変だよねぇ


それはそうと、感覚のちがいなんて、あるのはあっても
仲がよかった人と、わいわいやるのは、最高の楽しみには
ちがいない
そんなとき、やっぱり思うのは自然体っていいなということかな
自分が自然体で、わいわいの仲にいれるってこと
相手も自然体で、別にかざるわけでもない、もちろん卑下するわけでも
ない


おいしい料理があって、仲間の笑顔があったら、もうそれで
大変なごちそうなわけですね。仲間の店は、いつも気持ちよく
つかわせてもらってる。そして、料理の新作をだしてくれたりする
これもうれしいことだ


十代っていうのは、ほんとうに、すごく大事な時期だと思う
濃いところだ。十代のときに思ったことって忘れない
十代のときに、会った仲間って貴重だ


人間は、生きていかなければならない
生きるってことを、ずっと思っていた
その答えは、まだまだ模索中。それでも、行く道を
照らしてくれるのは十代で出会った人の言葉であり
ふるまいであり、表情であり、背中だ


といいながら、あれ、十代であった人と感覚が
ちがうーなんて、驚いていちゃいけないね
もっと、図太くもっとエネルギッシュに、生きなくては


そういえば、ずいぶん前に人に聞いて、ああなるほどと思った
「howではなく、whatを考えられる人」って言葉
その仲間の前でいってみた。ちょっと自分で使っていて
まだしっくりこない
そんな話も小人数のときに、また話してみたい
自分の人生のスタートのときに、いろんなことを
思った、その時間を共有した人と
ある面は感覚がちがうかもしれないけど
やっぱり、ある面は似てるかもしれない
いいえ、やっぱりいまの立場が、考えを作っていくから
ちがう答えが聞けるかもしれない


そんな楽しみを思って、また再会する日を楽しみに
してる
いい夏の夜だった