横山大観

日曜日は、横浜美術館に、横山大観の展覧会を
見に行く
サブタイトルが、よき師、よき友となっている


とっても気に入ったのは、焚火という作品で
その描かれてる人物の表情と、空間がいい
火を囲んで、寒山と拾得が、笑顔である
こうした、空間にとてもあこがれる。人と人が笑顔で
自然で、お互いを尊敬して、笑顔でいる
話し合いは、おそらく広く、深いのだ


こんな空間なら、その場に呼ばれてみたいという気持ちが
だれでもわくのでは、ないだろうか
大観は、人と人をくっつけるような存在だったのでは
ないか


四国松山にいって、正岡子規記念館にて、子規の人を思い
いつも弟子たちのようだけど、人に囲まれて、その中心人物として
生きたという、愛すべき子規の姿をかいまみれたが
もちろん、人柄やら、いろんなことちがうだろうけど
大観も、かさなるところを思った


火を囲んで、いい空間がある。そこでいい話をしてる
とてもいい。笑顔があたたかだ
大観が、いろんな人と交流があるのがわかる展覧会だという
こともいえるようだ


京都の料亭からの注文にて、江戸の日本橋
京都の三条大橋の、対の絵を、後輩で友人の
小杉未醒と書いたという。こうした試みも
面白くみれた


音声案内の解説に、へーっと思ったのは
千利休の、若いときの絵(与四郎?)にて
これは、利休の師が、利休を試すため、はききよめられた
庭をそれとはしらぜす、掃除せよと指示したところ
利休は、わざと木の葉をちらして、風情をだして
見事にその師の期待にこたえたというところの絵を
解説しながら、大観の言葉として、絵は心で描くのです
また、見るのも心で見るのです。そうであれば
画家を育てる、いいえ芸術家を育てるということは
いい人材を育てるということになりますと


またはいってすぐの絵の解説で、自然を見たまま描くのでは
なく、例えば自然の姿をすっかり自分のなかにいれたら
一週間とか、自分のなかにいれておいて、それから
自然の悪いところがそぎおとされてから、描くのですと
言ってる


自分がいい状態でなければ、いいようにそぎおとすことは
できないと思う
また見たものを、そうして自分のなかで洗練させて描くということ
いいかえれば、起こった事象を、自分がいいほうにとって
いいことに結びつけるような生き方をして、それをもとの人に
返すということが、できる、そういう自分の状態で
生きていくということにもつながっていって
それは、ある面人生の極意なのかもしれないが
ちょっと、しんどいなと思ったりする


全体の印象は、横山大観、いろんな美しいものを絵にすることが
できてしまう、オールラウンダーという感じがした
野の花という、タイトルだったと思う、大原女と野の花が
描かれた大きな絵は、身近がものなのに、いいえ身近なものを
描いたから、おそらく見るものに心に残る
絵を描くということを、本当に楽しんだ人なのかなと思った