墓参り

昨日は彼岸で墓参りをする
懐かしい、叔父、叔母、いとこに会って、たあいのない
話をしてみる
そういう時間って、少し前まで、おそらく30代までくらいかな
あまり、大事じゃないように思えていた
いまは、少しずつ大事になってきた


自分を、赤ん坊のときから、知っていてくれる、親戚に
たまに会うのは、大事なことのように思う
地域でしっかり、生きてる人に会うのは大事なことの
ように思う


梅はすっかり、花をおとして、彼岸桜、こぶしが咲く街を
歩いたりする。曽祖父であり、祖母の思い出話がでる
ウチの実家では、なぜか彼岸に、お赤飯を炊く
人が集まるときに、ごはんものは、強い味方だ
祖母がずっとしていて、どうもずっとの定番になったようだ


親戚が顔をあわせて、お互いの身体を気遣い、なにげない
話ができること、このことがなかなか、とてもいいことで
大事と思えることは、いいことだ
こうしたことの積み重ねが、家族であり、地域の人と
手をにぎって、進むというときには、欠かせないという
気持ちがわく


実家の母は足がだんだん、弱ってしまった。墓参りにいくときに
通らなければならない、階段を手を引いて、やっとの思いで、歩く
歩みは遅い。しかたがないのだけど、おそらく10代、20代という
やはり墓参にきた、知らない人が、だまってじっと、歩みの遅い
母が階段をあがるのを、待っていてくれた


そんな一シーンだけなんだけど、人のあたたかい視線を感じた
自然と、お待たせしました。いいえごゆっくり、気を付けてと
声がでる。ありがたい。ほんのちょっとのふれあいなのだけど
ふんわりとした空気が流れる


子どものとき、祖母を墓参をすると、祖母が墓に声をかけてることが
おかしかった。聞こえるわけないよね。非科学的な態度だなと
いったところだろうか
でも、リアルにいっしょに生きた人が、墓に眠るいまでは
墓に声をかけることっていうのは、とても、なごやかな
空気が流れる、シーンにて、ついつい、おどけていってみたりする


彼岸は、まさにあちらの世界の人と、時間をちょっとだけ
重ねることができる、そんな一日なんだろうと思う
お茶をのみ、なにげない話ができるだけで、うれしいと感じることが
できる、心の状態を保っていきたいと思った
生きてる、自分たちが、力強く生きようと、誓うことは
どんなときにも、必要なのだけど、あちらに行った人とも
ときどき、つながってると感じながら、さらに生きようと
思えたら、とてもうれしい、とても、しなやかな
生き方ができるように思う