土地と人

昨年の秋、四国の松山に遊びにいって、正岡子規の記念館などが
とてもよくて、伊集院静の、「ノボさん」という小説を読んだ
いま、司馬遼太郎坂の上の雲を読んでいる
ふたりの作家は、当然視点もテーマもちがうのだと思うのだけど
なぜか、正岡子規の姿は、重なって見える


坂の上の雲は、日露戦争に勝ち、そのヒーローとしての秋山兄弟の生きざま
それにからんで、正岡子規の生きた姿を描写してる
司馬遼太郎の、解説のところで、日本は日露戦争に勝ったという、大きな
財産を、太平洋戦争にむかって、まきちらすように浪費したという書き方が
あった。このまきちらすように浪費ということに
耳が痛かった


才能豊かな人が、人生でその才能を花開かせるのではなく
まきちらして、たいした、成果もあげられず、浪費していく
まるで、自分の人生を指摘されてるようで、耳がいたい
いいえ、自分が才能があったなどとはいうつもりはない
才能でなくて、可能性といってもいいか


ときどき、自分の能力、可能性を一心に磨きつづけて
その能力、才能を開花させて、なお、輝いて見える人がいると
思う。そうした輝きのまえに、自分のやってることがなんて
矮小にみえることか


今年は、ソチオリンピックがあって、日本に新たなヒーロー、ヒロインが
生まれた。スポーツで、オリンピックで活躍する人は
自分を一心に磨いてる人といっていいと思う


全然レベルはちがうのだけど、テニスというスポーツを続けて
なかなか、レベルアップできなくて、むむむ、と思う自分がいる
もちろん、体力だとかはあるにせよ、もっと絶対的な時間を
テニスに注げば、少しはうまくなるだろうとは思う
けど、なかなかだ


たとえば、記録のタイムを縮めるのに、限界に挑戦する
ジャンプの集中力。フィギュアスケートの美しさを求めること
どれをとっても、ものすごい、時間と意志のちからと
まわりからの支えにこたえて、ずっとずっと鍛えてやってる
すごいなと思う


人生って、ときどき、いかにあることを続けていけるのか
というこの一点を思えばいいのかと思うときがある


話はもどって、正岡子規。俳句であり短歌の世界に
新風をいれて、その世界に生きたという
自分があとおそらく数年で死ぬという定めを思いながら
文章を書き続けたという
やはり、その意志の強さに、あこがれる
短歌について、いままで評価が定まってるという人を
あえて、攻撃して、自分の世界は、こうだと主張したという


奈良の明日香の、万葉集のふるさとは、二十代のころからの
思い出の地だ。正岡子規は、万葉集源実朝は肯定したが
古今和歌集はこきおろしたという


古典という、評価がさだまってることを、あえて否定する
そういう、激しい生き方は、なかなか面白い
時代がそうしたことを、求めたということもありそうだ


自分のエネルギーをどこに注ぐのか
それはやっぱり、自分しか決められないことだろう
だから、日々を大事にしたい。生きていて悔いのないような
なにかを、みつけたい。
正岡子規のエネルギーに乾杯
その食い意地にも乾杯

あこがれを、自分の生きるエネルギーに少しずつ、転化したい