植物が喜ぶ雨

雨の中で、木をみるということを思うと
10年ほどまえの、社員旅行で、那須塩原の妙雲寺を
朝、散歩したのを思い出す


河合隼雄先生が、「カウンセリングを語る」のなかで
牛にひかれて、善光寺まいりという話をひいてる
ある社員が、自分の意図がなかなか伝わらず
早くいえば、反抗心をだして、扱いにくくて、つらいなーと
思ってるその最中だった
そんなとき、妙雲寺のたたずまいと、木々の雨のなかにあるその
空気が、自分のこりかたまった、心のわだかまり
やわらかくしてくれたのを、思い出す


人間は、やっぱりひとりの人間
その人間のある部分を変えようなんていうのは
なかなか、できるものではない
でも、会社なんてことになると、やっぱり一定のところ
上司の指示にしたがってもらわないと、会社としてのなにかは
全然すすまない


こだわりがあった。自分は人の指導がうまいという自負もあった
それで、ぶつかった
ぶつかってしまって、おたがい一歩もひきません、という
感じでやりあうと、傷つけあうことになる
そうしてしまうと、全然いいことない


牛にひかれて、善光寺まいり
この言葉、実は結構気に入ってるのだけど、本当の意味で
自分が腑に落ちるまで、わかっているのか?と
聞かれると、うーんとうなってしまう


ただ、妙雲寺の空気は、そういうことを
信じてみようかという気にしてくれた


人間が生きるってことは
いろんなことが、起こるから、そうしたことを
生きる上でどう位置づけるか、あるときは戦い
あるときは、受け流して、いろいろ
やらなくてはならない


まして、なにか人に伝えて、その人にやってもらおうなんて
ことを、考えるならなおさらそうだ
考えを、伝えて、ときにぶつかり
ときに説得しなければならない


そうしたことって、生きることそのもので
自分はそうしたことをやるってきめているけど
人にやれっていってやってもらうのは
なかなか、骨の折れることになるかと思う


牛にひかれて善光寺まいり
人間は生きなければならない
生きるなら、やっぱりちょっとは、自分で自分を
納得する生き方を、したくなる