学ぶ力

「学ぶ力」 河合隼雄 工藤直子ほかより


以下引用

古代ギリシャでは、自らの課題を自らみつけ、それに自らが応えていく
その課題に対応するものとして、「探究」と「感動」という
ふたつの力の向上を教育と考えた


中略


このイメージは、ソクラテスのドクサ論にも反映された。ドクサの邦訳は
「思い違い」もしくは「思い込み」。ソクラテスはそれを、良い思い込みと
悪い思い込みとに分けて考えていた。教育的発想あ当然にも、良い思い込みである
その意味については自分の体験で、具体的に説明したい。


それは私の幼稚園時代の出来事である。あるとき、幼稚園の友達と口喧嘩したことがあった。その原因というのは、たわいもないこと。その日、私の住んでいた旭川の天候は雨
ところが友人は、札幌は晴れだと言ったのである。その時期のわたしの常識
では、旭川と札幌の距離よりも、空のほうがもっと広かったのである。
旭川が雨ならば、札幌も雨でなくてはいけない、という「思い込み」であった。
それで喧嘩になったのだが、この私の思い込みがドクサである。


ソクラテス的に言えば、良い思い込みになる。思い込みが正しい知識に出会い、
是正されてこそ、その知識は自分のものとなる。さらにそれが繰り返されることによって
エピステーメ(真の知識、真実在)に到達する、というのが
ソクラテスの教育観なのである。子供の知的欲求(探究心)は、思い込みから
はじまるという観点は、今でも時代を超えた普遍性を感じる。ちなみに
「悪い思い込み」とは、思いこんだことをなんらかの権威を利用して
肯定(固執)しようとする態度のことである。彼の哲学的な本領は
この悪い思い込みとの対決にあった


引用おわり


今日、こうしてながながと引用したのは、学ぶことのなかに
こうした、思い込みという過程があるということが、面白くて
というか、自分も思っていたことが、こうして説明されていて
それがなんか、紹介したくなって、書いてみたという感じ
思い込みが、正しい知識に出会って、是正される
この過程が大事だろう。
ここで、やはり思い出すのが、自分がまちがっていたときに
いさぎよく、ああ、あれはダメだったと治せることではないか


仮説をたてて、検証して、それがいえるとなったら、行動してみる
仮説は仮説で、まちがってるということがあるからだ
もっとも、なにをもって、まちがってるのかというと
その定義だとか、立場ということがあるので、注意を要する


例えば、株価があがることは、景気がいいことだ
これは、おそらく相当数の人は、正しいといいそうな
サンプルだ。ところが、株価をいつもは意識しない人に
そんなこと、インパクトがあることになるだろうか
そういう意味では、株価を意識しない人には、意味がない
ともいえるからだ


思い込みが、意味があること
思い込みということを、正しい知識に出会わせることができること
それが、学ぶということに意味をもたせるなら
そうしたことが、ヒントになるのではないか


先週は社員が集まっての、研修がありました
その学びのなかで、感じたこと
それは、目標発見力を強くしていきたいと思ったこと
自分の目指すべき姿は、こんなふうな存在だと
感じ取れること
言葉は、自由で、言葉でしか語れないことはたくさんある
けれど、言葉にはそれぞれ背景があって、ある人が語る言葉を
その人の背景をおもんばかって受け取るのは、いつも、必ずは
なかなか難しい


その前提にたって、やっぱり、学ぶことって、すごいことですね