お線香

去年から、今年にかけて
早すぎる、と思う人、机を並べて、思い出をわけた仲間が
虹をわたることがありました
そして、家族の人のいたみも、ふれてなんとも
人間って、やっぱり生きてる時間は限られてるんだと
思い知らされました


そんなことがあったからということもあるのですが
ウォーキングをして、定番のコースの、大本山総持寺
歩くときに、お線香をたてることが、ふえました


お線香をたてて、手をあわせます
うまくタイミングがあえば、若い修行僧たちの読経の声のなかで
そうしたことができます
少し、虹をわたった、仲間にむけて、声を
かけたりしてる、自分ということに、自分で満足して
ほっとしたりします


最初は、いつだったろうか
大学の仲間が早くも、あちらに行ったときだろうか
人が、死ぬということの、むごさ、大きさ、その意味を
かみしめるということを、知りました
それは、夏でした


それから月日はながれ、もちろん、日常で笑うし
日常で、だらだらともするし、つまりは一応ふつうに
過ごせて、時間を重ねています


今回のように、ごく近い人が、お先に失礼と、逝ってしまうと
あああ、人間って、いつまでも同じ場所にはいれないのですね
とあたりまえのことに、やはり驚き、そして、いっしょに過ごしていた
家族の顔を見るという悲しみを、味わい
ねえ、どうしてそんなに、急いでしまったの?と
仲間に問いかけてみて、ちょっとむなしくなったりするのです


数年前、朝ドラだったと思います
田辺聖子の半生を描いたものがあって、
そのなかで、肉親が逝くというときの、思いを語ったシーンが
とても印象的でした。田辺聖子さん、さすが、いいなと思いました
それは、肉親が逝くというのは、むごい、理不尽なことに
ちがいない。悲しくてやりきれない。けれど
もうひとつの意味として、人間は限られた時間しかないという
ことを、家族の死ということにより、心にきざみ
だから、毎日しっかり、意味のあるものにしなくてはいけないと
誓う、そんなことができる、貴重な経験なんだと


これを聞いて、ああ、なるほどと思いました
また、墓参りというのも、それに続けて、年に何度かでいいから
親戚と顔をあわせ、お互いの元気なことを確かめ合うということが
ゆくゆく、みんな墓のしたで休むといったことが
少しずつこわくなくなることに、つながるのかと
思うようになりました


夏は、この世からあの世への思いが少し、交わります
若いときは、失った仲間と、おまえ、幽霊になってもいいから
連絡がとりたい、でてこいよ、なんて真剣に思ったのですが
そんなことも、ずいぶんまえ
いまは、気持ちのもちようで、つながってるといえば、つながれる
そんなふうに、思えるのです


セミの声のなかで、遠くなったかもしれないけど
心は、近いよと、思いながら夏の日を過ごしてみようか