舟越保武

諫早石で作ったという、聖セシリアであり、聖クララの像


見ていて、見つめていて、どうしても引き付けられてしまうほど
リアルで、それでいて、現実からは遠い


言葉というのは、こんなに不自由化と思うけど
リアルでそれでいて、現実から遠い


写実的で、実際にはありえないほど、美しい
その美しさというのが、造形のという感じより
その表情、自分がいままで接したことのある、精神性の高さを
ぎゅっと、濃くしたような、そういう、なんというか
逃げ場もない、でも美しく引き付けられるそんな表情の美しさ


舟越保武 まなざしのむこうに


http://www.neribun.or.jp/web/01_event/d_museum.cgi?id=10249


練馬区立美術館に行ってきました
暑い日ですけど、彫刻たちは、静かで
表情をかえずに、迎えてくれた気がします


舟越保武は、東京芸術大学に在籍から少しのあいだ
練馬にいて、若い、いわば青春の日を過ごしてるようです
そんな縁から、練馬区で、展覧会が開かれたようです


佐藤忠良が好きです
その佐藤と、芸大で同級生だったという、船越。
一度だけ、銀座のギャラリーで作品にふれ、とても興味をもちました


今回、船越の代表作の多くが、石で作られていて
自分は石を彫る職人だと称してることに、佐藤と似てるなと
思いました
それから、船越も佐藤もそうなのでしょう
おそらくは、女性の美しさを、精神性の高いものの美しさに
いわば、昇華させてるように思えてくるのです


去年だったか、八ヶ岳美術館に、清水多嘉治を見て
そのおだやかさに、見入ったのですが
その清水とはちがう、また豊科近代美術館の、高田博厚とも
きっとちがう


けれど、船越のみている、女性の美しさと、佐藤のみているそれは
共通のものがあるように思えたのです


ひとつは時代ということもあるかもしれないです
戦中、戦後という、日本の復興という時期に重ねて活躍した
舟越や佐藤は、そういう要素、つまり精神的に高いものということに
「救い」だとか「未来」だとか
それまで、信じたものがこわれたあとの、なにかを作る時の
信じたいものという方向に、作品も向かったのではないでしょうか


勝手なことを、書いてしまいました
共通でないこともありますね。おそらくは舟越の、デッサンはものすごく
精緻に見えます。石を彫るということで、そのデッサンをしっかりする
ということが、求められるのかなと感じました
粘土なら、「足す」ことができるけど、石は彫りすすめば、足すことは
できない。きりとったものはもとにもどらない


いいとは思ってるのですが、佐藤の作品が、自分の目のなかにはいったようには
舟越の作品は、まだ受け入れられない自分がもどかしいように
感じます


なにかしら、自分のなかにあるものと、ぶつかる?よくわからない
あこがれ、だけになるかもしれないです