言葉の定義

ある言葉をめぐって、ある人はAという定義をしていて
別の人は、Bという定義をしてる
そういうことがありますね


「解釈」ということもあります
日本人は、民族も相当な割合がいっしょで、日本語を扱う
という意味で、言葉の定義について、ある意味相当なアドバンテージが
あるようにも、思ったりするのですが、いいえ、その逆という
こともあるようです


英語だと、定義を気にするということが
結構あるように思うのだけど
日本語だとない
それは、定義を気にしなくても、伝わると、思ってるから
なのかなとも思います


いいサンプルが書けるか、不安に思いながら
書きます


ワークショップを定義するとします


私の定義は、人が集まって、自分の考えをさらして、意見をもらい
さらに考えて、もう一度さらす、それを繰り返して、気づきを得る行為
となります


別の人、Wさんは、人が集まって、関わりをもって、学びがあるとしましょうか


あれ、そんなにちがうのかな、となります
ちがうんですね
私のところには、「さらす」という行為がはいります
さらすことができるか、そのこと、さらすということが入るのか
どうか、私としては、かなり大きなポイントです


人間は、言語がないと、考え自体もてないということも
言えそうです。だから言語は使い続けるのですが
他人と言葉の定義をあわせこむというのは、なかなか
やっかいな、仕事です


だから、何度も話し合うのが大事ですし、また話し合うだけでなく
経験するというか、このことこそ、○○だと、言葉そのものが
感じられるものを、いっしょに経験するとういことも
ときには、必要になってくると思います


前にやった、研修で、自分は感動することを、大切にするし
感動するために、いろんなことをやると、言った人がいます
なるほど、と感じました


同じ、到達点に向かうと思うのですが、私の言い方でいえば
自分を活かし、よりよく生きるために、いろんなことを
すると言うでしょう


これ、実はやっぱり、ちがうことを、言ってるのでしょうね
感動すること、たとえば、素晴らしい景色をみる
人と人が、スパークするというか、あることを、きっかけに
仲良くなる。たとえば、男と女もそうだし
同性同士だってそうかもしれない


同じ素晴らしい景色をみて、いっしょに感動できたことが
心と心を結ぶのだと


そんなふうに、「感動」ということは
使うのですが
自分が言った、よりよく生きるというのは
たとえば、仕事を通して、自分のやる仕事が、いい形で
実を結んで、そのことが、花ひらくように、ある人が育つとか
そういうイメージがあります


言葉の定義って、やりだせば、やるほど、結構奥が深く
また、やっかいなことも、くっついてくるように
思います
だけど、ていねいななにか仕事をしようとしたら
避けて通れないことも、やっぱりありそうですかね