敷居の高い話

アートの話を、かみさんとできるようになりたくて
ちょっと、もがいていたことがあります


アートの話は、敷居が高いですね
自分がアートの話ができるようになるとは
20代や、30代では思っていなかったのですよ


たとえば、スターといっていい、画家がいますね
その絵をみて、いいと感じない自分がいたとしたら
それは、ごく普通のことなんですけど、いいと感じない
自分のほうが、なにか恥ずかしいような、そんな
気持ちになるような、勢いというか、そういうものが
あります


そういうことからはじまり、アートの話は
なにかと、敷居が高い
そういう話ができる人は、いってみれば
ちょっとレベルがちがうというか
劣等感を、感じてしまうのでしょうかね


州之内徹という、いまでも、そこそこ人気のある
美術に関する、エッセイストといったらいいか
そういう人がいます
だいたい、私にしたら、祖母と同じ世代です
昭和の終わりに、70代で亡くなってる方
その方の、「気まぐれ美術館」という本に
絵について、自分が手元におきたい、そう思う
それ以上の賛辞はない、と、書いてるのですね


そのあたりから、そうか、絵も自分が楽しむかどうか
その1点でまず、みればいいのだと、感じたのです


絵にしても、音楽にしても、おそらくはスポーツに
しても、自分が楽しめるように、接すれば
とても自由になりますね


けれど、今日表題に書いた、敷居の高さというのは
どうしても、残ります
絵については、特にそうです


クラシック音楽がそうのように
世間でいうところの、高い値段がつく絵は
敷居が高く見えます
そうみせる、マスコミがあるということもあります


高々絵ですけどね


好きな絵が、似てる人と、話すのは
楽しいものです
もちろん、人間、感覚がまったくいっしょなんていうのは
ありえませんから、当然一定のことがちがうのは
あたりまえ。
それでも、そうですね10%でも、重なるところが
あるとしたら、それはもう、ずいぶん感覚が似てる
部分があるなんて、思っていい
ちがってるほうが多いのが、普通ですから。


そう、考えていくと、人間はお互いちがっていて
あたりまえですから、共通点があったら、それをもっと
楽しめばいいし、はたまた、違うってこと自体も
やっぱり、楽しめるということが、いいのだと
そう思えてくるのです