考えて、さらに考えて

ウォーキングのルートである、総持寺
「古教照心」という札が掲げられています


ハッとしました


高校時代に、古文の先生が、古典性という
話をしてくれました。古典なんて聞くと
古臭いものでしょう、とか思っていたのですが
目から鱗でした
古典性をもったものというのは、残っていくのだ
残ってきたもの、その質の高さ、いつの時代でも
人の関心や興味を集め、価値を認められるもの
といっていいとのこと


そうなんです。古い教えにも、残ってきただけの
素晴らしさがある


つまり残ってきた、教えというものを知って、さらに
自分で考える
言い換えれば、自分で考えるだけでは足らない
もちろん、人の教えに従うだけでも足らない
両方なくてはならない


仲間と読書会をしたときに、仲間が知っていた
古くから、これは「セオリー」といっていいこと
ここからは、自分の考え、といったやりとりを
聞いて、なるほどと思いました


「家族の話」になったのです
親が子を頼りなく思う、これは、セオリーというか
古くからいわれていたこと。そして、自分がどうか?
子どもと相対して、自分と似てるところをみつけ
やっぱり、いやになったりする・・・
こうした、なまなましい、話、とても聞いていて
実感がこもっていて、楽しかったのを思い出します


会議において、考えを述べるということが大事です
会議は、考えてきて、自分の意見を言う場であるから
価値があります
自分の意見をさらし、忌憚なく意見を言ってもらい
カオスを怖れずに、話し合うのです


先日、ある本を読んでいて、話し合いの前提として
その出席者を尊重できているか、ということが
主張されていて、なるほど、と、思いました
このこと、「決める」立場の自分としては、ギクリと
する話です


決める、ことができて、自分が責任者なのですから
決めなくてはならないのですが、決めるということは
ある面、せっかく議論してきた、いくつかの意見を
切り捨てる、いいえ気持ちとしては切り捨ててはないのです
ただ、見様によっては切り捨ててると見えることに
なりますね


いかに、いい決め方ができるか
ここが、会議の真骨頂といっていいかなとも
思います


古教照心、まず、考えてみる
そこから、はじめたい