奥村土牛

絵が、力強くかつ、澄んでると感じます
京都大徳寺真珠庵を描いたという、「茶室」
ふすまが、幾何学模様のように感じる茶室の
一角をきりとった、それだけ、なのだけど
澄んでるのです


ある一角を切り取るということは、画家のひとつの定番
といっていい、手法なのかもしれません
ちょうど、カメラでズームアップするように、美しいところ
目でみて、あれ、これはなんだろうといったことを
出して見せるわけです


東山魁夷も好んでとった、この一部分を切り取る
という方法。画家がやる、美しいものを、掬い取る
といっていいのかもしれません


「鳴門」という作品。ご存じ鳴門の渦について
これほどまでに、迫力、現実感をもって、描いた絵は
私は知りません
水、自然の作り出す、この不思議でエネルギッシュで
という現象を、土牛さんはどうしても描きたかった。
それは伝わってくるのです


この美しいもの、エネルギッシュなもの、生命を
感じるもの、描きたい、どうしても自分で表現したい
土牛さんの生きる姿勢は、そのことであふれています


だから、素朴、純粋な生き方、なのでしょう
だから、強い、だから惹かれるのでしょう


こうして、表現してみると、生きるということは
なにかを好きになるということと、ある意味「同義」なのだって
気が付くことができます


奥村土牛は、絵を描くことに、自分の生きることそのものを
かけたのです。そしてそのことが、絵に入り込み
見ている人の心をゆさぶるのだと思います


比べるのは、どうなのかと思いながらコメントすれば
引き合いにだした、東山魁夷は、もちろん、人生をかけて絵を
描いたことは、奥村土牛に勝るとも劣らない、姿勢があったと
言っていいでしょう
そのなかで、東山魁夷はどこかしら、奥ゆかしいといったらいいか
その対象のものに込めた思いに、気づくより、その色彩
構図、絵自体の美しさがでてきて、そのなかに、秘めた
自分の思いがあるのでしょう


奥村のそれは、とにかく、真正面から対象と向き合う
そのことが、本当に、なんのほかのものもはいらない
純粋さ、ひたむきさ。それが姿勢そのものになってるような
気持ちがいたします