牛にひかれて善行寺参り

この言葉に出会ったのは、河合隼雄先生の著書のなかでした
ある初老の女性が先生のところに、やってきてお嫁さんの
愚痴をいっておられる。先生は、話を最初聞いて
ああ、この人は死ぬ、準備をしにきたのだなと、思ったと
書いています。その人に、お嫁さんはあなたにとって
「牛にひかれて善行寺参り」の牛ですよと、語ったと
書いています


ここで、拡大解釈です
ある女性が、お嫁さんのことを、牛にひかれて善行寺参り
の牛、として、いろんなことが見える、というのなら
だれにでも、牛といっていい存在が、あるのではないか?


だいぶ、乱暴な拡大解釈です
ですが、人、であったり、仕事であったり、もしかして
「こだわる」なにかであれば、言ってみればすべてに
なりたつといってもいいとも、思ったのです


私にとっては、なんなのか?
人材育成、と、頭に浮かびます
確かにこだわりをもって、やってることは確かです


善行寺参り、ということに、あんまり気持ちをもって
眺めてこなかったのですが、つまり阿弥陀如来様を
ありがたいと、とても感じることができるような、こだろうと
推察します


如来様、菩薩様を、ありがたいと感じるということは
自分の心のなかに、なにか、少しやすらぎをもった
ということに、なると思います。そういう気持ちになれるのか?


仏様で、印象深いものって、実は結構あるのですが
いっとき、我が家に「運慶ブーム」がやってきました
運慶の仏像さんを、たくさんみました


伊豆、願成就院にある阿弥陀如来様が、運慶の作では
よく覚えてる、仏様です。そのとき、解説してくれた人が
運慶の若いときの、作であり、運慶の気持ちがでてると
言う人がいますよ・・・


新しい時代、新しい権力者のもとで、ウデをふるう機会を
もらって、意欲がみなぎっていたのだと、想像すると
そんなふうに、見えてきます


いろんな想像をして、仏様をみるのも、楽しいですが
ちょっと、ほんとうかな??とかも、思っています


こだわること。私は人材育成にとりくんでいて、繰り返し
思うのは、やっぱり自分の不勉強、であり、物事をみる力が
まだまだで、人を指導しようというのなら、まだまだだなと
思うこと。ただ、仏様をみていて、ちょっとは落ち着きを
とりもどしたり、そういうことも大事だと、思うように
なった、っていうことでしょうかね


人が、人に影響与えるなんてことは
こわいことでもあるし、はたして、うまくできるのか
なんていうと、いつも??となることがたくさんあるのです
だけど、なんにもしない、というわけにはいきません
人と人は、いいやりとりをして、成長する
そうであれば、できるだけ、いいやりとりができるように
なにかしらを、準備するなり、したいところです
今日も、ちょっとずつでいい、そういうレベルをあげていきたい