励みになること、大事ですね

棟方志功の作品、解説に、自分で棟方は
自分の作品に、責任が持てないといったとのこと
そして、その言葉を受けて、棟方が師と仰いだ
柳宗悦は、「自分の作品に自分で責任を持てない、
これは、無責任ということに通じる話ではない。
では、何だろうというと、人間のレベルで責任を
もてない、つまり神のレベルなのだ」ということを
言ったというのですね


人間は、神を求めて、生きているといってもいいと感じる
ときがあります。先日、ノートルダム寺院ノートルダム
聖マリアのこと、というしばらく前に読んだ、コラムから
聖マリア、神そのものをあがめる、これはいわば、母性を
求めるところから、でてる話ではないか?などと、神の
話を、ずいぶん、俗なものに、置き換えての話にして
しまったのです。


でも、日本では、観音様、それが「拝む対象」として
ずっとあったということ、(おそらく日本の仏像で一番
需要があったのは、観音様ではないか?)これも
同じことがいえると思うのですね


神とはなにか、などと、ここでやるつもりはありません
拝む対象として、ほしいもの、母性ということにつながってる
それは、ごく自然といっていいこととも、感じます


人間は、単純なところ、姿が美しいものにあこがれ
拝みたくなる、それも、あっていいことといっても
いいのではないでしょうかね


できれば、自分の信じることを、通じて、なにかを感じ
またそれを、「はげみ」にするということは、悪いことでは
ないと感じます
宗教のあれこれ、神とはなにかということと別に
長い間、人々に拝んで、こられた仏像が、ありがたいのは
長い間の継続した、拝まれた対象なんだということ
ではないでしょうか?


人間が生きていくときに、もちろん自分自身、生きるのに
恥じないそういう、努力をするということがなにより
大事なことに違いないですが、伴走して、励ましてくれる存在が
ほしい、これもまた、あっていいこと、というか、そういう
ことがあるから、人間は続けられるということもありそうです


いまでいう、アスリート。ほんとに、努力したことが輝いてみえる
そういう人が、感動させるうらには、その天才とみえる
その姿、実は努力することにおいて、天才なのだと、教えてもらいました


前向きに、生きることを、肯定してとらえて、自分のまわり
起こることを、自分に伴走してくれる人のはげまし、と
受け取れる、そういう生き方をしたいと、思いませんか?