佐藤忠良

足なげる女


若い女・シャツ


帽子・夏


佐藤忠良の作品の、ブロンズが、動き出しそうに思える
これは、いったい?どういうこと?
好きな彫刻家、高田博厚。高田の作品は、これまた
いい、のだが、佐藤忠良のそれと比べると、ちがう


動き出しそう、そういう意味でいえば、佐藤
その対象者の生き方が、見えてくるといえば、高田


高田の作った、ガンジーの表情。おそらくはガンジー
精神性ということで、一般人が到達できない、高みにいたのだと
想像させてくれる、そういう表情。


佐藤の彫刻は、その対象者がなにを思ってるかが
語られるというより、佐藤の作った形が、人間を思わせる
身近にいる、人間として、呼吸しそうだという、感覚


たまたま、佐藤の作品をみた、前日、倉敷、大原美術館
マイヨールのトルソーをみていた
そのふくよか、な、体。曲線がうっとりするような
ライン。
そのふくよかさと比べたら、帽子・夏であり、そのほかの
女性の姿について、日本人の体がそうだということも
いえるけど、曲線でなく直線に近い。
これほどまでにちがうのに、間違いなく、佐藤の女性は
まさに、私の愛する女性と、近いのだ。


八ヶ岳美術館で、清水多嘉治をみたとき
そのとき、高田をみた後だった?ということもあり
「形」でなく、発してるものの差に、気持ちが
いきました
それは、おそらくは、高田と清水の作りたいものの差
といっていいと思いました


今回、夏に高田をみていて
今週、佐藤をみたのですが


この二人の差は、作りたいものの差、ではない
おそらくは、見ているものの差。


今回、あえて、この文章で、高田博厚と、佐藤忠良
無理にも、比べてみたのですが
ある人物のやってることを、理解を深めるために、比較対象を置くのは
ひとつの方法です。ただし、それは、比較ということの限界も
見えてきます


「見る」という行為も、こうした傾向がある、といったことは
言えるにしても、それぞれ、何十年も作品を作り続けた作家
ある傾向だけで、とらえようなんていうのは、単純すぎるかも
しれませんね


今年、安曇野でみた、高田の作品
胸像が、三角形の形にならんでいた
それは、高田がパリ、またその周辺で出会った人と
とらえることができた


このレイアウトの、学芸員は、おそらは、高田の著作
分水嶺」が好きで、高田のいわば、高田の人格を
決定づけた、パリでの出会いを、表現したかったのだと
想像します


生き方、ということで、思い出すのは
佐藤忠良は、晩年といっていいとき、これからの仕事は?
「昨日の続きです。」「去年の続きです」
といったと、読んだ
なんて、すごい、プライド、とも見える
けど、まさに佐藤は昨日の続きをしていたのだ
だから、作品が、人間の生きたそのままに見えるのだろう