うた、の世界へのあこがれ

短歌や俳句を楽しんでみたいと
思うことが、ちょっとずつ、ふえています
そういう気持ちになった、なか、ふと気が付くこと
短歌や、俳句は、作ること自体が楽しい、とも
言えますが、作ってから、愛でてみる
評価、鑑賞するそういうことが、楽しいと言えるのでは
ないでしょうか


そう思うと、本歌取りという、誰かのマネをして
楽しんだというのも、おおいに意味のあることとして
理解が進むように思うのです


2018年、京都国立博物館において、三十六歌仙の絵の
展示がありました
歌が、うまかった36人の先人の姿をみながら、茶会を開き
おそらくは、歌も作ったのだと、想像します
こうしたことは、鑑賞することの楽しみを
いろいろやるから、いいのだ、とも見えます
まさに、古典の楽しみ方の、ひとつの頂点かも
しれません


高校時代の古典を受け持った先生が、「古典性」
ということが、いまに残って生きてる、その普遍性にも
近い、残り続けてる、良さという意味を含むと
教えてもらいました
その先生は、1980年当時に、ビートルズはある種の古典性を
もってるといっていいだろうと、つぶやいた人です


そうはいいながら、若いときには、頭で理解しても
古典のよさが、体にはいってこなかった、ということも
あるのだと、いまは思います


ある人との、関係性、その背景の景色、季節
また、自分の気持ち。こうしたことが相似形となって
古典として残ってる、歌に共鳴したとき
きっと、深い感動を、覚えるのだと、感じるのです


京都で、みた、歌の数々。いま、歌人や歌そのものを
思い出すことは、できないですが(このブログをたどると
でてくるのですが)はっとするものがいくつかありました


それは、忙しい日々送ってる自分に、月をみる、そういう
余裕をもちたい、だったように、覚えがあります
もう一首は、親ばかになる、そういう気持ちをうたったものでした


何百年という時をへて、新鮮で、うまいな、とうならせる、
そこに、素晴らしさがある


一般人の自分は、これからにわか勉強をしても
古典として残ってる、歌の境地に近づくことはできない
とも、想像してしまいます
だけど、鑑賞者として、ちょっとだけでも、楽しめるなら
やる意味があるのかも、とも、想像しました


人間は生き続ける限り、学ぶことが大事だと
思います
そうしたとき、歌を学ぶことが、なかなかままならない
言葉を使うということに、気持ちや、学びのフォーカスが
いくのなら、素晴らしい
はたして??
はたして