思うがまま、描く

新潟県南魚沼市にて、みつけたあ、棟方志功の板画
釈迦十大弟子、志功の思いがこもった作品と
言っていいと思います


解説に、棟方志功は、十大弟子を思い浮かべて
ひとりずつ描くってことはしてなくて
思うまま、人間はこんな顔をするのだと思って
かき上げ、それを、十大弟子にあてはめたのだと
ありました


え?宗教の、なにか、ばちあたりなことをしていないか?
という考えも浮かんだのですが、直後
いいや、これこそ、正解っていうか、もともと
十大弟子って、どうよと思うと、ほんとに
弟子が10人だったのではなくて、あるとき
象徴的なエピソードにつなげて、10人を言った
人がいて、それから、10大弟子ともなったとも
思えてきて・・・


富山県福光の土地にいくと、棟方志功がのびのびと
描いた、松だったり、棟方志功の生きた軌跡といった
ことがかいまみれる、ギャラリー、展示に
会えます
そこでみた、やはり解説、棟方志功が師とあおぐ
柳宗悦は、「棟方志功自身が、自分で自分の絵に
責任がもてない」といったことを、つなげて
責任がもてないというのは、無責任といったことを
言いたいのではなく、これは人間の責任がもてる範囲を
超えて、神しか、扱えないのだと、書いています。


さて、先週府中市美術館にて、与謝蕪村の絵を見ます
「田楽茶屋図屏風」
うーんと、うなるのです
一瞬で、表情をとらえてる、人の顔、姿・・・
田楽を焼く女性の、おいしそうな雰囲気
それを食べる、まあ、そののけぞりかたから
これ、ほんとにうまいんだなと、思う、男
ツンデレ、って思うような表情の女性・・・


蕪村の、筆、こう描こうが、あるように思えない
筆が、動いていく先に、この表情、風情をもった
人がでてくるように、思うのです


小説を書く人が、ときに、主人公が勝手にしゃべりだす
ときがあるという、言い方をします


絵を描くにしても、物語を書くにしても
人の、考えを超えた、いわば、ゾーンに
はいってるような、そんな時間、そんな
発想がでるときというのが、あるのかなと
思います


府中市美術館。図録の表紙にもなってる、うさぎくん
このうさぎが描かれた、「涼しさに」自画賛


このシーンをきりとった、蕪村の気持ちのなんと
おおらか、そして、柔軟、かつ、しなやかで
風情を楽しんでる様のよさ、があるように思います


昼間の暑いときをさけて、麦をつく、老人
その月夜の様のよさ


こうした、なにげないひとときを、楽しむことが
できるというのは、ほんとうに、人生の達人
じゃないでしょうか