棟方志功

アート作品をみるときに、その作家の人柄、だったり
生きた軌跡ということが、とても気になります
上村松園は、優れた芸術を作り出す人は、必ずその人自身
優れた人格を備えてると、書いています
そのとおりだと思います


そういう、作品と作家の生き方といったことを
つなげていくというのは、普通といっていいと、しておくと
その作家について、なにか、悪い印象を持つとすれば
それが、影響して、作品も低くみてしまうということも
起こります


棟方志功は、そういう、例のひとつなのだと
感じます
棟方志功、1903-1975ですから、自分が生きた時間と
12年ですが、重なっています
そして、テレビにも登場したのを、覚えています
棟方志功の、テレビにでてくるその姿は、ひどく方言が
あり、また、所作がどうも、垢ぬけないそんなふうに
映ったのです


ですから、たとえば、ずいぶんまえに、倉敷の大原美術館
作品をみたりしても、どうとも、なんというか、心に
響かないように、思っていました。それはどうも、テレビで
みた姿が邪魔をしたといっても、よさそうです


ところが、3年ほどまえ。富山県福光に、棟方志功の足跡を
訪ねてから、印象はがらりと変わりました
なんというか、棟方志功の世界にやっとはいれたといっていい
かもしれません


棟方志功が「師」とあおぐ柳宗悦の解説が、記憶に残っています
棟方志功、本人が、自分の作品に責任が持てないと言います
この責任が持てない、という言葉は、無責任といったことに
つながっていくことではない、それは、人間である自分には
責任が持てない、神の領域ということになる・・・


棟方志功は、目にもとまらぬ速さで、作品を作っていくという
エピソードがあります。どうも、やってることが、なんというか
少し子供にみえてくるような。つまり、「神」なのでしょう
トランス状態ということも、近いかもしれません


棟方志功の作品で、とても気になる、言い換えれば好きになった
釈迦、十大弟子、というのがありますが、棟方志功は、はじめから
十大弟子をひとりひとり、決めて、描いてない、というのですね
人間にはこんな顔したのがいる、ということで、作り、後で
あてはめたということが、書かれていました。これも、ひとつの
見方としては、なんて乱暴なんだということも、言えますが
だいたい、十大弟子、その十人なんてことは、たぶんですが
後世に、作り出した、物語ということもありそうなことだと
推察します


そういう意味では、棟方のアプローチは、あっていいのでは
という感じもするのです


私も何人か、作家が天真爛漫といったこともある、つまり
その人柄自体、わくにはまらない、大きさがあるというか
そういう人と、出会ったことを、思い出します
きっと、棟方志功も、なんというか、アートとかを気にしない人が
みると、またテレビだったりすると、なんだろう、この子供みたいな
おじさんは、となるのでしょうが、神に近いような、オーラ
エネルギー、そうしたものが、そうみせたといっていいかも
しれません


今年、大好きな野沢温泉に、棟方志功が滞在して、絵を描いた
また、野沢温泉出身の、歌人の歌を絵に織り込んだ
という話を知り、また棟方志功の、存在が少し近くなった
気がしました


ずっと、見ていたい絵に、なりつつ、あるのです