アート

よい人間でなければよい芸術は生まれない。
これは絵でも文学でも、その他の芸術家全体に
言える言葉である。
よい芸術を生んでいる芸術家に、悪い人は古来
一人もいない。
みなそれぞれ、人格の高い人ばかりである

(一部抜粋) 上村松園 棲霞軒雑記


上村松園の絵をみて、この言葉を聞くと、全くそうに
違いないという、気持ちがふつと、自分のなかに起こります
その半ば、興奮というか、いいものをみたという、ほくほく
とした気持ちをもって、先日とても仲が良く、かつアートの
話ができる、仲間に話していました


そのとき、「酒席」だったということもあるのですが
その仲間は、では「太宰治」はどうですか?といいました
つまり、上記の言葉の反証として、太宰治は?と。
そう、作品としては、ある古典性をもつともいっていい
そういう作品を残していて、実際の生きたその人は
どうも、さえない。いってみれば、そんな人生は誰もが
送りたくない(と、読んだことがある)


太宰治については、さておき、自分がほれこんだ、アートのこと
たとえば、荻原碌山はどうなのか?
彼の生きた、あれこれ、と、みると、そうこれも人格が高いとか
その生きかたが、素晴らしいとは、言えないかもしれない


そうして、反証をあげるというか、もう一度、上村松園
言わんとしたことを、かみしめてみたいです


そうすると、おそらくは太宰治にしても、荻原碌山にしても
一定期間、それなりに長くみたときには、なんで、この人は
こんなふうなのか?といったことが、見えるのかもしれない
ところが、ある一瞬と言っていい、人生のある時点での
きらめき、といったことが、あって、つまりその瞬間は
素晴らしいなにかが、その芸術家のなかに、ほとばしって
それが、作品に昇華してるといっていいのではないでしょうか?


とても仲がいい人と、「人生の宝物」という話をしたことが
あります
その人いわく、「恋愛」であり、「家族の時間」は間違いなく
人生の宝物といっていい、そういうものだろうと、考えると
言いました


荻原碌山が、相馬黒光との恋愛を通じて、生きてる意味
自分が一人の人を愛する、そのすばらしさを、かみしめて
「女」という傑作を作り出した。これは、安曇野碌山美術館
感じた、碌山のアートの意味でした


碌山は、亡くなって111年。いまもなお、その作品、そして
上に書いたような、生き方そのものを、アートにしたという
ことが、人を、あこがれさせる、なにかにつながって、
存在感をもつのでしょう


アートが、人間の生きてる意味を、問うということが
改めて、アートに接していて、気になります