奥村土牛

日本画家、奥村土牛の絵を描いた場所を
何か所か、行っています。今年は、奈良、吉野の桜を
見に行くことができました


吉野は、実際、4度目くらいの訪問です。そして行ったとき
現地の人に、桜の季節にもう一度いらしてくださいねと
言われました


奥村土牛は、何度、吉野に足を運んで、この桜の景色を
みたのでしょうか?


画家が、美しいもの、美しい場所を、描いて、その美しさを
知るということを、何度か、感じました
だから、画家が行ったと言われる場所を旅するのが
好きになっています


話は飛びます。今年の連休に、アーティゾン美術館に
いって、繰り返し、同美術館でみている、セザンヌ
セントヴィクトワール山。どうも、この絵のすばらしさが
くろうと受けするという、その意味が、よくわからないというか
少なくとも、自分のなかで、言葉にして、いうことができないのです


奥村土牛は、自伝、「牛のあゆみ」における、解説の河北倫明に
よれば


土牛画伯の中に、本能的にセザンヌと共鳴する何ものかが自然に
躍動していた事態を想察する


土牛はセザンヌのめざしたものを、取り込むといっていい
絵を描き続けたと、なるわけですが、これ、どういうことでしょう


画家が、別のアーティストから影響を受ける。これはとても
よくあることで、ときには、その影響受けた人のいろいろから
ぬけでるのに、苦労するという話もよく聞くところです


河北の表現では


私はこのような、日本画伝統とセザンヌ芸術の融合昇華・・・
となる


そもそも、すごいなと思うアーティストから影響を
受けるということが、まず、とてもアンテナが高い人がやってる
ことだと、言えるのですが、融合昇華と言わしめる、そのうえを
いくなにかをした。


言葉が先走ってるようにも思うのですが、いいえ、たとえば、
鳴門、たとえば、姫路城を描いた、いくつかの絵、もっとたくさんの
画業から、この言い方は、決して、誇張してるのではないと
感じるのです


こうした、日本を代表するといっていい、奥村土牛が、世界中が
評価するセザンヌのアートと、向き合い、これを昇華させるような
生き方をしたということが、すごく、自然に思えるのは
自分が奥村土牛が好きで、ひいきしてるから、だけとは言えないと
思うのです


セザンヌを引き合いにださなくても、土牛の絵は、日本人の
おそらく人間の、心に響く、またなつかしさ、うれしさ
ほほえましさ、といった、ポジティブな感情を想起させる
そういった、すばらしさがあります


だから、土牛の絵を描いた場所で、生きるエネルギーにふれたい
そういう、気持ちがでるのです