仏像の話

箱根、成沢美術館にて、奥村土牛円空仏のスケッチを
だいぶ前に見ました


そのころ、小山ゆう あずみが気に入っていました。その作中の人物が
仏師をめざしてる青年。その青年と仲良くなったあずみ。
青年は、自分が作る、仏像が長い間、人におがんでもらったりする
できれば、そのみてくれた人になにかしら、あたたかいものとか
気持ちがなごむなにかを、感じてもらえる。そんな仏像を作りたいと
語る。それを聞いたあずみは、すごいと叫び、そのお手伝いがしたいと
言う


それははたして、どんな仏像だろうと、想像してるころ、箱根で土牛さんの
スケッチをみたのです
やさしく、人をつつむようなあたたかさがあったのを、思い出します
そのスケッチがよくて、円空仏ってすごいなと思ったのです
ところが。
数年たって、上野、東京国立博物館にて、円空の仏像の展示を実際みたところ
そんな気持ちにはならない、いいえ、円空円空で、その作品のよさは
あるのだろうと、想像はできるのですが、あずみから土牛とつながった
自分の勝手な、こうだろうは、ずいぶん違いました


今思い出して、円空の、なにが円空なのかというのは
自然に近い、木々に、彫り付けた、その自然になるというか
溶け込んでいるような、すごさということに、なるかもしれません
いってみれば、抽象画に近いような、印象です


あずみで、想像し、それがビジュアルになったと思った、土牛さんの
スケッチは、具象画なのです


土牛さんというフィルターをとおして、円空の良さということを
受け取ると、それが伝わってくるといってもいいかもしれません


なにか、少しくせのある、食材も名料理人が、ここぞというウデを
ふるって、料理すると、なんともいえないスパイスになって
その料理がひきたつといったことに、似てるのかもしれません


仏像をみるのが、だんだん、好きになっています
仏像もたくさんの種類があって、なかなか、覚えきれません


今年の春に奈良にでかけて、秋篠野寺の吉祥天、唐招提寺
千手観音、薬師寺薬師如来、どれも素晴らしい仏像です


思い出すまま、仏像をいえば、東大寺戒壇院の、四天王
京都、聖護院の不動明王東大寺三月堂の不空羂索観音


それぞれにについて、そう、具象画をほめるように
具体的に、記述できればすごいのですが、やはりどこかで
記憶があいまいになってしまうのと、その仏像自体の
なにかをとらえきれてない?ゆえ、書くとすればずいぶん
ごまかしがふえそうです


お寺にいって、その仏像をみて、心が安らぐ感じがするのは
おそらくは、仏像をおがんで、ずっとおがんで、たとえば
親、先祖のことを思ったり、自分の至らないことを悔いたり
いろんなことをしてきた、自分たちの先祖からのDNAが
気持ちを和ませるということがありそうです


それは「火」を囲むとき、家族といっしょに安心な時間だ
と思えた、そういう時間を過ごしてきた、自分たちが、そう
感じることに近いものがあると、そんな風に思います


また、奈良だったり、鎌倉の仏像に会いたくなっています