言語

高校時代に、「言語」というツールって万能じゃない
ということを、意識しました
十代の自分。たとえば、異性に気になる人がいて
その人に自分の気持ちを打ち明けてみた
なぜ、思うとおりに、伝わらないのか?
そんなことから、言語に対する、不思議さというのを
感じました


こうして、ブログを書くもそうですが、自分で考えてること
これを、言語化するというのは、「考えてる」ということと
それなりに、重なっていて、考える、というのは言語を
使うということ、が、まずあるみたいな、ところを
思います
ですが、実際は、「言葉」はそれぞれ、ニュアンス、背景
といったことが、伴っていて、伝わり方はずいぶん、ちがいます


京都大学の山極先生の「スマホを捨てたい子供たち」
という著作のなかには、人と相対して、話してることと
こうした(ここに書いてるような)デジタル化した文字では
そもそも、ちがうものととらえたほうがいいといった
説明があります。しゃべってることを、文字で表現する
とすれば、誰かがしゃべり、相手の誰かがまた・・・
とつながるわけですが、その相手がしゃべってる間に
自分がなにを話すか、瞬時に頭にあることなんて
表面化されない・・・
相対してしゃべることと、文字のながれって、ちがうなと
なるほどと、思いました


イーブンな関係、知識だとか、立場だとか、完全にイーブンって
ないかもしれないですが、そう言って、さしつかえないような
立場で、話をするということは、ものすごく、いい、なんていうか
自分の考えを、進めたり、深めたり、なにか決めたりという
ときに、大事な要素、自分の頭の回転、また、人に対して
いろいろ、いい感情を持ち続けるなどに、有効な手段だと
思います


ごく最近の自分の例でいえば、古くからの友人と、お酒を飲む
なんていうのも、自分を、「頭の中」「内的な心の様子」といった
ことを、活性化し、早く言えば、「もっとよりよく生きるぞ」
といった、エネルギーにつながることといっていいです


これはお互いに「リスペクト」といった感情が流れてるからと
言い換えることもできます。このリスペクトという感情が
あるかどうかで、その関係はとってもいいものになるか
ぎくしゃくしだすか、大きな分かれ目になります


こう書いていて、ひとつ思いつきました
リスペクトがある状態、これは利害がからまなければ、作りやすい
勝手にリスペクトしていて、そうだからといって、そのことが
なにかに影響をすぐするなんてことは、利害がリアルタイムで
からんでなければ、そうそうない
ですが、利害がからむ、つまり、いまビジネスで取引があるとか
ごくごく、近い存在で、自分のプライベートのなにかにすぐ
関わるとか、であると、リスペクトし続けるって、実は
結構、大変です
すぐ、相手の行為が、自分のビジネス、生活に響きますからね


できれば、話し合いなどをして、リスペクトをお互いする
ようになって、それで、進んでいくような、そんななにかを
作っていける、状態を、自分で意識して、やりたいですね