風景画

東山魁夷の世界が好きです
基本、人が登場しない、風景画。ですが、人の気配が
あるといえばいいでしょうか


「歳暮る」
京都の、ホテルと思われる場所、鴨川より西だろうという
場所から、東山、祇園の街並みを望める場所で、描いただろう
その絵。人はいない。ですが、家々のいくつかには、明かりが
灯り、そのなかで、暮らしてるであろう、人のことが想像できます


「窓」
ヨーロッパの城壁に囲まれた街。その城壁の門のところに
ある、ベンチを描いてる。おそらくは、旅をしてきて、この街に
着いた人が、ほっと一息いれたであろう、場所。ここにも
人はいない。だけど、人がいたという想像ができる


東山魁夷は、静寂を伴う風景を描いていながら、どこか
あたたかく、人があこがれるなにかを、描いてるのは
こうした、見てる人が想像して、そこに人がいたであろう
もしくは、これから、人が登場してくるのではないかと
思わせるそうした、世界を感じるからだと、思います


東山魁夷が、池大雅与謝蕪村の、十便十宜図を見たくて
川端康成に会うことを、人を介して希望します
初めて会う、画家の東山魁夷。はじめてなのに、川端康成
持っていた、十便十宜図を見せて、もてなしたといいます
ここから、川端が自ら虹の向こうの世界にいってしまうまでの間
親しい交流が続いたとのこと


その池大雅に、絵を習ったかといわれる「木米」という
文人の、陶器、絵を見てきました
陶器のことは、ここでは描かず、別に譲りましょう
その絵。池大雅が描く、山水画に、似てると思いました
いいえ、山水画の定番というのは、似てるものかもしれません
ここで、山水画のなかでの、池大雅はこれこれがいいとか
木米はこうだとは、うまく具体的な共通点だとか相違点を
書けるほど、私は目がないようです


池大雅のほうが、より、人を楽しませるといったらいいか
その表情なりが、くっきりだったり、絵のなかの自然の描写が
大胆とも感じます。木米は、楽しませるだとか、例えば岩が
面白い形をしてるということで、非凡さがあると言えばそう
なのでしょうが、池大雅のような、大胆さというのには、達していない
といったらいいでしょうか


絵を描く、東山魁夷が、池大雅の絵をどのように、受け取ったので
しょうか?
木米は、生きてる池大雅に会って、はたしてどんなことを
受け取ったのでしょうか?


東山魁夷がそうのように、「自然」を、相手とし、「師」であり
「対象」であり、美を追うときの、伴走者としても、自然が
あったのかと、想像します


池大雅、木米、東山魁夷も、自然を対象とし、そして古典を
学ぶということを、怠らずそれでいて、古典の世界から
自分の表現に、つなげていったということが、言えるのだと
想像します


アーティストは、美を表現します
そのことに、生きることの、大きなものをかけてるといっていい
のでしょう
そうだとしたら、アーティストという生き方は、なんて潔い
なんて、高い、生き方でしょうか