他人とやりとりすることで

人間は他人とやりとりする、ということで
一定のその人としての、姿を留めてると感じます


距離感ということを、思います。親しい人とやりとりして
その人と近いものを感じていて、その次に親しい人とは
こんな距離かな。あえて距離をとっていたい人とは
どうかなという感じです


生き方そのもの、という感覚もあろうかと思います
WBC ワールドベースボールクラシック、みんなうれしい
思いをしました。こうしたトップの選手のあれこれが
人気がでる、その理由のひとつが、誰もがあこがれるような
努力のしかた、生きる姿が、素晴らしいと感じるからだと
思います
だから、やりとりしながら、スーパースターのそのままは
できないかもしれないけど、自分ができることを、さがしたり
する。これもやりとりの、いいところでしょう


画家の生き方、といったことも、自分には気になることです
これは、たとえば、ある画家の回顧展といった展覧会を
みて、その図録にある、画家と交流があった人の
気持ちを描いたものにふれたりすると、それは
自分が画家に、会ったといったこと、そのままは感じれないに
しても、ちょっとだけ、そうした気持ちになって、その画家の
生きた様子というのが、受け取れたりします


これも、拡大解釈をすれば、画家とやりとりしてる
というふうに、私は受け取ります


東山魁夷と、川端康成の往復書簡が本になって
ときどき、読み返しています


東山魁夷と、川端康成は、絆があったといって
いいのかなと、読んでいて思います


東山魁夷の展覧会の序文を書くにあたり
川端康成は、直前にヨーロッパに言ったそのときの
スケッチ、絵をみていたといいます。またその展覧会が
ヨーロッパのものだけでないということで、
それ以外の絵もみようとわざわざ、美術館にでかけて
みてきて、その序文を書くという、気の使いかたを
したと、読みました


一方、東山魁夷は、川端康成の、京都を描いてくれないか
という気持ちに応えて、京洛四季という連作を
描きます


こうした、お互いのリスペクト、お互いの気持ちに
こたえようという、高い心、素敵だなと思います


もちろん、東山魁夷川端康成がどんな気持ちを
もって行動したのかは正確に知ることはもうできませんね
だけど、こうしたやりとりを、みていて、少し想像
することは、できるような、できてるように、感じたい
自分がいます


人とやりとりすること、それは素晴らしいなにかを
生むことがある、と、知ってるだけでも勇気がでてきます