日本人はあいまいなものが好き
そういう説明を聞いたこと、多いのでは
ないでしょうか
自分もある程度そう思います
そして、なぜ、あいまいなものが好き、あいまいさ
というのを、だしていろいろ話したりするということ
言い換えると、日本人でない、一応、欧米の人
というのは、あいまいなことを言うと伝わらないという
感覚がしっかりあるということだと、気が付きます
実は日本人同士だったりすると、「おおすじなこと」は
すでにお互い、理解していて、そのなかでのちょっとしたことを
話し合ってるなんてことが多いのだと、想像します
欧米人だと、そもそも、どっちだといったことを、いかにも
自分が正しいということを、明確に主張しながらやりとりするのに
力をさくということだと、そんなふうに思います
さきほど、ふっと「日本人ってどんなことを考える人」
というのを、ある人に説明しようとしたら、聖徳太子の憲法17条
「和を以て貴しとなす」
「厚く三宝を敬え 三宝とは仏法僧なり」
このふたつって、実際ほんとに大事だと思っていて
このとおり、進められたらいいなと思ったりします
ただし、和を以て貴しとなす、仏法僧にして、実は結構抽象度の
高いことに気が付きます
抽象度が高いところで一致していて、具体的になると、ばらばらで
どうしよう、そういうこと多くありませんか?
そうなのですが、抽象度の高いところでの一致ってやっぱり
大事だし、そこからはじまる、ともいえると感じるのです
抽象のことを思うと、「定義」の問題ではないかと、感じます
言葉はもともと、抽象的といっていいです
そして、言葉を使うとき、そのイメージ、ニュアンスは使ってる人に
よって変わるのです。定義ですね
「花」といって、菜の花畑を思い浮かべる人
いいえ、ひまわりだ、いいえ、朝顔だ、
いいえ、かきつばただと、ぜんぜんちがうことをいっていて
でも「花」としてくくることができてしまう
話していて、自分の感じてることが伝わるのかというと
なかなか伝わらないということが、多いのだと思っておく
伝わらない、です、ということが前提にあって行動するということ
これ、すごく大事ではないでしょうか
日本人はあいまいなものが好き
いいえ、あいまいなものを、言ったりして、そのことが
ちがうようになったりを楽しむとなれば、それはそれでいいこと
というかポジティブにとらえてみてもいいと思います
白か黒かはっきりする
そうしないと、生きていけない、そうだったほかの、文化で
育った人が、あいまいはだめ、ということは
それはそれで知っていて、自分たち日本人は
あいまいなことも、一定のところ、受け入れておこう
そういう態度が欲しいかなと、感じます