中学生くらいといっていいか
外にばかり向いていた、目があるとき
自分に向けられるようになると
ようやく、人間は大人へのステップをあがりはじめる
自分の内面と、向き合っている人というのは
ステキだ
例えば、自分がされたら、いやだなということを
人に安易にしてしまうことは少ないのではないかと感じる
と書いていて、実際社会生活していてとか、相手に
必ずしも自分だったらいやだなということをしていないかと
いま自問自答してみると、いいえ100%できてますとは
いえないな、とため息がでる
でも、気づいていて、これは自分だったら、いやだろうなということを
やってしまうというのは、いやだし、悲しいことだ
そうならないためだけではないのだが
自分の内面と向き合うようにしたいと思う
いつかもこのブログに書いたのだが
自分の内面にある、もうひとりの自分と
ときに、話し合い、はげまし、叱咤し
そしていっしょに喜んで生きていたいと思う
萩原碌山が、最後の作品、「女」を作るときの
心の動きが、こちらにせまってくるのは
いかに、生きるということが、大きくて
せつなくて、素晴らしくて・・・言葉ではとても
いいあらわせられない高く、重く、大きなものが
心のなかできっと燃え続けたことなのだろうと
感動するのだが
それは、作品そのものの素晴らしさと、碌山の生きたこと
そのものといっていい気持ちがこもってるということが
人の心を打つのだと感じる
私も、生き方が人の心をうつような
そんな人生にあこがれる