奈良公園

先週、遅めの夏休みということで
奈良にでかけました


数えてみると、16年ぶりの奈良でした
司馬遼太郎の「街道をゆく」というシリーズで
奈良にいくならということで
興福寺宝物館にある、阿修羅像と
二月堂から大仏殿におりてくる道がいいという
解説があって、20代のある日、そのとおりに
東大寺のあたりをぶらぶらしてみた


今回、阿修羅像と、同じ宝物館にある、山田寺の仏頭は
見ておきたいし、二月堂のあたりもいいのでいってみた
宝物館は去年に建て替えがあって、阿修羅象は同じはずだけど
レイアウトやスポットのあてかたががらりと
かわっていて、面白かった
二月堂のまわりも、雰囲気は、それなりによかったのだけど
司馬の本にでてくる、古い古い茶店が、これまた建て替えになって
いて、こちらはなぜか、すごく残念な気がした


奈良で、お寺をまわっているとずいぶん国宝の仏像に
会えます。ここで仏像を解説するほど、知識がないので
うまく説明はできない
でも、奈良時代飛鳥時代の仏像は、やっぱり古くて
どちらかといえば、日本人の顔というより、より
遠くの、おそらくインドなり、中東なりの影響を残した
顔が多いように思う
見ようによっては、人間そのものから、離れて神に
近づいてるという見方もあるかもしれない


興福寺の別院という説明のある、浄瑠璃寺には、はじめていった
なんと9体の阿弥陀如来が、静かな山里といっていい
趣のある場所に、何百年もあるという。ここを訪れた人は
そのありがたさに、目を開かれるのではないかと感じた
奈良や京都の千年という時間をきざむ、こうした大変な文化は
感じる人は、その大きさ、文化の高さを誇りにも思い
生きる、支えになってるのではないか


旅をして、いいなと思う、古いものや、素晴らしい景色などに
ふれて、日本というのはなんて、すごいいいところなんだろうと
改めて思う
8月の終わりから、白洲正子というエッセイストの「かくれ里」という
本を読んで、かつてのたとえば平家の落人とか、権力争いなどに
やぶれてなり、世を忍ぶ場所がいくつかあってという
文章にふれた。
地域にずっと守られ、そうしたひっそりとした、かくれ里がある
というのは、とても惹かれる
寺というのは、ある意味一面的になった、表舞台からひいた人の
かくれる場所になっていたのかなと、感じる


奈良は、仏像をみて、自分を内省したり
古いものの変遷から、これからもっと古典を読んだりする
楽しみを思う、そんな場所になった