感じる心

一昨日、mixiを眺めてると
とっても仲のいい仲間のひとりが
やなせたかしの詩(アンパンマンのうた)を
日記にあげていて
今年の災害を思ったり、自分の生き方を思ったりしてる


このブログにもやなせの詩をまえにのせた
詩も、もちろんアート全般そうだけど
感じる心があって、響くもの
感じる心を豊かにしたいとずっと思ってる


安曇野荻原碌山については、10年ほどまえに
はじめて、その代表作「女」を見たときに
感じれなかった良さが、2度目、3度目と
回数を重ねていって、いま心に響くものに
なっている


そうした、じわじわと感じるのもいいかと
ここの所思うようになった
くりかえし、彫刻の作品をみていって
碌山の作品がやっと目にはいるようになったというと
ずいぶん遠回りのようにも思うけど
それはそれで、いい


今年の夏に安曇野にいったとき、あるブライベートな
ギャラリーであった女性が(まだ学生さんだろうか)
碌山美術館が本当にすきで、中学生のときから
ずっとあこがれ、そばに住みたくて引っ越しましたと
聞いた。敷地が隣接する学校の生徒は、碌山美術館
掃除してるそうだ


いろんな好きになりかたがあっていい
いずれにせよ、感じる心があって
感じる心を豊かにすることによってこそ
わかる世界


碌山美術館は、現代の駆け込み寺のように
女性に慕われるという文章をどこかで読んだ
ひとりの女性への思いを、ひとつの作品に込めた
碌山の生き方が、きっと女性の感じる心に響くのだと
思う


なにかを自分で感じて、また自分をより豊かにして
もっといろいろ感じれるようになっていく
そうしたことは、まさに生きることそのもの
楽しいことばかりではない
苦しいこともあると、やなせも思ってるにちがいない


楽な道ばかり歩いていては
感じる心も、なかなか花ひらかない
そのことを忘れないようにしたいものだ