あじさいの思い出

浪人生のとき
6月だ。どうのもやる気がなえてしまって
今日はさぼってしまおうと、歩いていた日
確か鶴見の寺尾だったように思う、アジサイ
咲いていた
そのグラデーションの美しさに、しばらくわれを忘れて
少し客観視をすることができるようになった


けっこう、アジサイは好きだ
鎌倉にも、何度もいってるし、関東のアジサイ
スポットとしては、本土寺などもある
それから、アジサイ好きなひとが多いのだなと
思うのは、たとえばウォーキングしていても、庭に
アジサイをみることはとても多い


もう10年以上まえだった
わが社で研修を企画した。ひとつはスピーチだった
やってみせなくてはいけないと思って、私がひとつモチーフに
したのが、アジサイだった
うえのような経験から、自分をみつめる時間をもつ習慣が
大事で、それには身の回りの花に目をむけてみようなどという
内容だった


内容はともかく、そのころの私はまだまだ(いまでも?)強引
だったのだろう
心のどこかで、会社が決めたというより私が決めたことに
従うのが、当然という傲慢さがにじんでいた


人の心って、複雑で微妙で扱うのには、とても大変だ
傲慢な気持ちというのは、言われたほうはすぐ気が付くものだ
いかに、「いい会社にしよう」という大義名分があったにしても
ぞんざいな扱いはすべてを、悪いほうへ押し流すパワーを
秘めている
だから、少なくともなにかを相手にしてもらうのは
仕事で当然と見えても、相手が気持ちよくやれるような
配慮がほしいものだと、ずっと思ってる


うえに書いた、スピーチにアジサイとがくアジサイのちがいなどを
書いてるのだが、実際野生のアジサイガクアジサイのほうが近い
白神山地にて、いっぱい野生種のアジサイをみた
いわゆるみんなが想像するアジサイ、確かに見栄えはいいのかも
しれないけど、野生のものは、自然でしっとりとした空気に会う
なんとも、あけっぴろげで、いい存在だ
あのアジサイはえる林を歩いて、フィトンチッドを感じてから
自然のなかの、森林浴ということが好きになってる


今年も7月半ばをすぎた
あじさいの季節は、そろそろ過ぎようとしてる

あじさいの思い出