大事なときは見守る

等伯」 下巻 p255から


「そうじゃないんだ。本物の松が目の前にあるように描いてくれ」
等伯は久蔵の手元をのぞきこみ、どうしても口をはさんでしまう
すべてを任せて存分に腕をふるわせようと決めたのに、黙っていられなかった
「しかし、松はこんなふうに描くものだと思いますが」
「それは狩野派のやり方だ。・・・

人の目とは不思議なもので、自分が学んだ知識と技法の通りに世界を
観てしまう。それは真にあるがままの姿ではなく、知識や技法に頼った
解釈にすぎない。
等伯はそのことを言っているのだが、久蔵にはそこまでの理解が及ばなかった。

「それなら、父上が手本を示してください。私にはもうわかりません」
・・・

等伯は突き放した。表現者は孤独である。誰ともちがう、誰にも真似の
できない境地をめざして、たった一人で求道の道を歩き続けなければならない
久蔵はその境地をめざして、自分と向き合う旅にでたのだ。絵師にとって
一番大事な切所にさしかかっている。黙って見守るしかないのだった。



自分の軸を作るといっていい、生き方をさぐるのは、「教えてはもらえない」
古教照心とみたとき、ああ、そうだなと思ったのは、教えてもらう
ということは、考えたすえ、自分と向き合った末
なるほど、思うことを、また古い、古典といっていいことに
整理されたものをみて、ああこのことだったんだなと
苦しみながらも思うということを感じるからだ


人の心は、大きく複雑で、本当に理解するのは大変だ
まして、自分の心となると、自分で向き合うのはなかなか、ふつうのことでは
ままならない。
しかしながら、相手になにかを伝えたい。そしてその相手に
できれば、自分の思うようなふるまいをしてもらいたいと
望むのであれば、一定のところ、自分の心と向き合うのは
なくてはならない、はずせない仕事になる


何度か、高い気持ちにしてもらった、経験をした
人を理解するということは、なんて難しいんだと
しりごみしていた自分。だけど、生きるってことは
しかも、人と関わって生きるってことは、しりごみして
ひっこんでいることを、許さない。


悔いのない人生を送ると、決めたのだから
いかに、困難を伴うとわかっていても、後戻りはしない
それが、誇りある生き方だと信じてるからだ
そうだとすれば、ずっと長い道のりだが、自分をほんのちょっとずつ
でも理解し、そして相手にも少しずつでもアプローチを
続けなければ・・・


灰谷健次郎の書いた、「天の瞳」で
人間は、大事な人を心のなかで、生かしておく
そういう役割、使命があるという。だから記憶ということが
大事になるという
そういう一節が、ときどき、頭をよぎり、自分はその使命を
忘れてないかと、ときにはげましてみる
ちょっとずつでいい。ちょっとずつしかできないかもしれない
前に進む。だって生きてるんだから
生き続けるんだから