京都に行きたい

八重の桜を見ていると、おそらくフィクションなのだが、フィクションだから
描ける、そのときの人の思いとは、こういうことか
ということにあたる


まだ維新への動揺が、はじまっていないとき
吉田松陰と、宮部鼎蔵が、会津を訪れ、主人公の兄である
山本覚馬と交流するという場面がある。そうした前段があって
池田屋事件のときには、宮部が新撰組に切り殺されてるのを
みて、山本は、こんなはずじゃないとつぶやく


池田屋のあとには、いま池田屋という居酒屋ができてる
実際行ってみると、こんなおそらく京都の目抜き通り、いわば
日本で一番にぎやかなところのひとつといっていい、そんな
場所で血なまぐさい事件が起こり、これが長州藩を激怒させ
維新の動乱につながっていくということは、なにか、ちょっとは
現実感をもって、歴史をみるきっかけとなる


維新は、司馬遼太郎にすれば、ドラマだという。その舞台となってる
京都はまさに、夢の都。日本人の心のよりどころになってる
ように思う


京都で人気のある場所のひとつ、東山の高台寺にいったとき感じたことがある
秀吉の正妻、ねねの寺。文字通りの高台にあり、その敷地にいい感じの
茶室があった。
こんな茶室でことによると、ねねは、加藤清正であり、福島正則と語ったのか
と思ったりすると、これまた、本で読んでるだけより
その人物像に少しはせまれたような気がしてくる
歴史の曲がり角を、ねねはどんな気持ちで迎えたのか
想像してみたりするのは、楽しい。


その東山をみる、いい場所がある。京都タワーにのぼると
東山から、それにつらなる、京都の町屋が見える
この東山の美しさを、東山魁夷は「年暮る」という作品で
いまにつたえてる
実際東山魁夷が描いたときは、すでにビルであるとか、風景をこわす
ものがたっていたようだ。別の本で読んだが、東山魁夷は「目休め」
といって、美しい部分だけをみて、それを絵にできる
いわば、心の目をもっていたようだ


京都は、行ってみるたびに、その特別さに心がひかれる
いつかは、錦市場で野菜をかって、自分で料理してみたい
またそうしたあと、同じ食材を、京都の料理人が料理したものを
食べて、比べてみたい
なにかやると、どんどん、それに伴って、たのしい連想が
でてくる