月を思う

今朝、起きてウォーキングに外に出ると、月は半月でちょうど
真上、ほぼ真上に近くみえるところから、見下ろしてる


いっとき、星占いとかが好きになって、詳しく調べる方法を
みたりした。星占いは、誰それがしし座だとか、いて座だとか
いっているが、詳しいいいかたをすると、一般に星座がどうと
いってるのは、太陽の星座の位置を言ってる。たとえば私は
9月7日の生まれだけど、そうするとおとめ座ということになる
太陽のほかに、太陽系の惑星の位置をそれぞれ、調べるということが
ある。そして、月も。月を調べるのは、生まれた時間も必要という
ことがある。いまは、便利にインターネットのそういうサイトに
いけば、ぱっぱと、すべての星のはいったホロスコープ
できあがる


これをみたとき、というか月の存在を知ったとき、また解説に
月はときに太陽よりファンタスティックに性格に影響するのだという
ことを知り、星占いもちょっと信じてもいいかなと思った
つまり、私は太陽が乙女座で月はおひつじ座なのだが、おとめ座のベースに
牡羊座の性格もまざっているのだという。人間の複雑さをちょっと
いいあらわすのに、まあ面白い考えだ。実際は足りないのだろうけど


そんな月の不思議さは、その動きにもあるのだと、わりと最近気が付いた
月の出、入りは、結構毎日ちがうのですね。おそらく1時間はちがう
そんなことを、気づいたのは、去年の京都だった


東山魁夷の「日本の美を求めて」という文庫本の26ページから


円山公園へ急いで着くと、私はほっと一息ついた。ここでは山が間近であるため、
幸いに月はまだ姿をみせていなかった。紺青に暮れた東山を背景に、この一株の
しだれ桜は、淡紅色の華麗な装いを枝いっぱいに漬けて、京の春を一身に
集め尽くしたかに見える。しかも、地上には一片の落花も無かった。
山の頂が明るみ、月がわずかに覗き出て、紫がかった宵空を静かに登り始めた。
花はいま月を見上げる。月も花を見る。この瞬間、ぼんぼりの灯も、人々の
雑踏も跡形もなく消え去って、ただ、月と花だけの清麗な天地となった。


この文章で、その場所にどうしてもいきたい、その場所に立ちたいと
思って、京都にいき、月の時間を調べた。二泊三日、京都にいて、一日目と
二日目と、そのタイミングをみたのだが、月の出が1時間ちがうのに
あれ、と思い、気が付いたのだ


今日あらためて、↑の文章を見直して、東山魁夷は別の文章でもふれているが
「目休め」ということが書かれてると改めて気が付く
実際のところ、去年訪れた円山公園は、東京の上野公園といっしょで
花の名所、夜も宴会がひきもきらず、たいへんな人出にて、景色は
ともかく、この人の多さがまいったと思ったのだが、東山魁夷
おそらくは、人が多い場所でみて、ぼんぼりだの人の雑踏はなくなる
ほど、「目休め」をして、月と桜のみを感じたらしい


人生において、こうした、目休めといったことができることは
生きていくうえで、なんて大切で、ほんものを見るというためには
必要かということに、ときどき、気付かされる
桜は美しかった、その上に月もみた。でも雑踏が気になって、味わいつくせなかった
これが、私が感じていたこと。桜と月に集中して、感じることが
できるような心のありようは、いつになったら、できるだろう


東山魁夷は、こうして、私を、少し高いところに
ひきあげてくれる存在のようだ。京都の素晴らしさは、東山魁夷のひとことで
また、感じることができるかもしれない