出会うということ

人と人が出会って、そのとき、スパークといっていい、現象が起こることって
あります。そうなったら、人と人との縁がさらに、出会いを呼ぶなんて
ことも、起こりそうです。なんて、素敵でなんて、すごいことかと思います
今月は、今年で3回目となる、年に一度の、中学時代に通った塾の会があります
塾の卒業生が集まって、同窓会をするということです
この塾の先生が、当社の創業者、先代社長のご夫婦です。


塾でなにを教わったか?ときどき、思い出しています
きっとそれは「生き方」に通じるものだと感じています。人でも
本でも、相対するときの姿勢ということになろうかと思います
人に相対してるとき、自分の全身で話を聞くということ。傾聴するということ
本の読み方ということになると、集中して読むということでしょう


人と人が出会うこと、このすごさ、エネルギーは言葉では、言い尽くせないことが
あると思います。高校時代にお世話になった先生に、「なぜ生きるのか」という
質問をしたことがあります。その先生の答えは、「生きているから、生きる」
ということでした。ああ、そうかと、なぜか自分としては、そうだったと
自分の気持ちに添う答えだったと記憶しています。
生きてる、生きていれば、素晴らしいことにも出会える。生きているという
ことの次の言葉が、素晴らしいことにも出会える、この前向きさが、すなわち
生きようという力になっているにちがいない。


昨年の大河ドラマ、八重の桜において、八重の二番目の夫、新島襄は出会いの
人だという。新島を支えた、八重の兄の山本覚馬は「人の心にすっとはいってくる」
と新島の人柄を言ってる。この「すっとはいってくる」ということは
強さにつながることだなと感じます。ピュアな気持ちをもってるが
ゆえに、相手のふところに飛び込むことができる。


生きる力を強くするということは、ピュアな気持ちを持ってること
そして、ピュアな気持ちで人と出会うということに
なるのではないかと感じ始めました。


信州、安曇野碌山美術館で、見ることができる、荻原碌山の「女」
という彫刻を思い出します。ひとりの女性への思いをアートに昇華させた
と思っています。その生きた証そのものに見える、彫刻が、なぜこんなにも
見た人の心をゆさぶるのか、ときどき、思いを馳せます。


生きること、生きるということに迷うこと。さらに、とまどい、
時に苦しむこと。その中から、自分で希望を見つけて、人からの支えを
しっかり受け取り、生きる意味を問い直し、生きることになんとか
前向きになっていく。
どうも、アートに向き合う人というのは、そんなしんどい、道筋を
ごまかすことなく、行かなくては、おそらく作品は生み出せないのかなと
感じることが何度かありました。
生きた、奇蹟といったことが、輝いてみえるものに変わっていく


碌山は、相馬黒光を愛し、かなえられないながら、ピュアな気持ちを
持ち続けた。そんな、苦しいながらも、アートにうちこんだという
その姿に、生き方にみんな心ゆさぶられるのではと感じます


生きようという気持ちが、輝くこと。このことが感動を生むのだと感じます