心がつながるということ

なにか、このことを伝えようか、迷うという事態について
少し客観的に、見るとすると、おそらくは、心と心にパイプがない
もしくはあっても、つまってる状態なのではないかと
感じる


恋をしてるとき、相手の心がわからなくて、どうしようか
とても迷う。それは恋をしてる対象の相手と、しっかりした
パイプがないから、相手の心がわからずに、どうしようかと
なってるのだと思う
もしくは、ただの知り合いなら、わからなくても当然なのだけど
恋をするまで、相手のことを思ってる自分としては、わかりたくて
わかっていたくて、でもわからなくて、悩むというところでしょうか


人と人、チームとして進むのなら、やっぱり一定のところ
心にパイプがあるということを、めざしたい
だけど、?である。こちらが、パイプを作りたいなーと思って
心の扉をあけていても、そこに入ってこないという人に
対して、「入りなさい」というのは、本末転倒な感じも
するし、なかなかやっぱり、どうしようかなと思うわけです


チームをやっていくと、おそらく相手もどこかで
決めているのだから、そうした、こちらが扉をあけてるところに
入らないというのは、やっぱりチームの一員としては、困るなという
気持ちがでる


心と心がつながるということを、思うとき、思い出すひとときがある
このブログで「イザベラ空間」と呼んだ、先代社長が、ご自宅に
旅で知り合った、フランス人の女性、イザベラさんを招いて
話した、そんなひととき。極めて短い時間のはずだけど、相手と
心と心の距離はとても近かった
そうしたことを、思い出すとき、相手にもしっかりした、気持ちとして
つながっていこうということがあると感じる
心と心のことだから、やっぱり「自然さ」ということを意識したい


そう書いておきながら、会社で仕事をするというときは
一定のスピードであり、やっぱり他社からみて、なるほどと
思うような、同じ会社の社員としての、振る舞いは求められると
考える。実際、日々の仕事は待ってくれない


いままでも、なかなか言葉で言って、伝わらないとき
どうしょうか、と思ったことが何度もある。それは答えは
やっぱりないのだと思う。何度も伝えること、そして、人を変えること
そして、やっぱりなんらか、感じてもらえるまで、伝え続けるのだと
思う


先日、最近親しくなった人と話していて、人は自己中毒ということが
最大のストレスになるんですよという話題がでた
思い当たることがある。この前もこのブログに書いた、人間は
成長できれば、なにをしてもいいんですという話題とつながると
感じます
それは、成長できると感じるときは、まさに自己を肯定してる
ということと、同義となることが多いということ
自己を自分で否定して、またその否定したことを、自分で認識できずに
迷うという行為は、とっても危険のように感じる


チームのことを、考えること。自分がチームのなかで、活躍することを
考えること。そこからはじまる、自分を鍛えるということ
その積み重ねを覚えてほしい。