何度もやってみることに意味があります

昨日、テニスの練習をしていて、ふと思ったのです
テニスのストロークもボレーも
理論とかばかり、いくら頭にいれても
実際にボールを打たなければ、うまくなりません
何百回、何千回、それ以上の練習が、手に足に
そのラケットの角度、ボールを見る目と手の協力具合
などのトレーニング度をあげていって、ボールが
いい感じでかえるようになるのです


これ、話し合いも似てるのではないか?
先月、親しくしてる、仲間が家にきたときに
話し合いがうまくなるには、上司がなにかアドバイス
するとか、なにか特別なことを(そのとき、こちらでは
ワークショップのなにかでといっていて、特別とは
限らないのだけど)やるより、いってみれば
物理学でいうところの、玉がぶつかりあうような
イメージで、とにかく、話し合いの数をこなすほうが
大事、という話題をだしていた。
確か、ネタ本があるということ、今度、その仲間に
教えてもらおう


そういうことが頭にあったのか、テニスももちろん
最初というか節々でやり方は、確認したほうがいい
(たとえば、昨日もボレーは、グリップエンドを前に
だして、構えるとかね、指示がとびます)
話し合いも、やり方を確認したら、とにかく、話し合ってみる
ということが大事かなという、感覚をもちました


同じように、思い出すのは、演劇での練習のこと
いろいろ、どう演じようか、考えるということも
ちょっとは必要かもしれないけど、やっぱりリハーサルで
演じてるという練習の時間を多くとること
演じることで、身体が考えるということがありそうです
確かに、一定のやりかたはある。たとえば、本読みのこと
身体を動かすまえに、やっぱりドラマであれば、その物語そのもの
に感情移入できるのかということが、大事とみるのでしょう
そうだとすれば、本読みで、身体が前のめりになるくらい
しっかり、感情移入してみる


ふりをする、という言い方で、話し合いも導入のやりかたを
説明できる感じがします
自分の役割を、こうだとして、その役割をしっかりやるふりを
するわけです
思えば人間は、そうそう、いっぺんにその道のプロには
なれません。だったら、ふりをすることからはじめてみるのも
ひとつです。コーチングの本に、「シャドウイング」という
やりかたを読んだことがあります。つまり誰かがやってることを
そのまま、自分もやってみるわけです


話し合い⇒楽しい⇒楽しいなか、なにか、自分でやってみたいことに気づく
という単純発想でいたのですが、どうも、楽しいというところまで
なかなか、行きつけないということが起こりがちです
でも、まずは何度かやってみて、そういう場面に接していくということが
大事だと、いまは思っています


人間は根源的に、伝えたい、相手になにか訴えたいということは
もってるもの。このことは、何度も感じた
それが、でてこないのは、でてこないだけの理由があるはずなんですね
そういう視点は忘れないようにしていきたいです