楽しめるということ

楽しめたらいいんだよ
そういう声がしてきます


ちょっと自画自賛(あれ、最近、このブログ自画自賛が増えてきてるかな?)
趣味ということでいうと、いろんなことに、守備範囲が広がってる(つもり)
ますは、アート。私の奥さんは、アートが好きで、大学の専攻も Art historyという
こともあって、ずいぶんひっぱられました
実際のところ、結婚するまえとか、結婚してしばらくとか
相手が好きなことができるなら、と「つきあい」で美術館に
行ったりしていたのです
でもね、それじゃ、もったいない。自分も楽しめるようにしたいと
思ったんですね
そして、ジョージア・オキーフの展覧会だったかな、はじめて自分でいいな
と思う絵に会ったりして、だんだん、「楽しめる」ように
なってきたのです


この楽しめるということがわかると、だんだん、守備範囲の広げ方が
わかります。前はアートとかにふれても、気持ちのなかで
あまり、なんていうか、いいなとか起こらなかったのですが
いいなと思えるようになりました


ひとつには、実際、絵自体というより、その作家の生きた、軌跡にふれて
いいなということが、ひとつの道しるべ、というか、「見てみよう」
ということの、導線になってることはあります
そういう意味では、州之内徹のエッセイはそうした、エピソードに
ことかかないということがありそうです


先週、長谷川りん次郎という、作家の、「猫」の絵を横須賀美術館
見に行きました。そのとき、確かによくかけてるとは思うのですが
その猫に対して、単純に背景とかしらず、絵だけを純粋にみたときに
自分のなかに、その絵を愛でる気持ちがわいてくるのか?
そんな疑問を持ってしまいました。州之内徹が愛憎した、コレクションの
一つということで、その髭を描くのを、どんなふうに待ったか
なんていうエピソードが面白くて、そうした、いわば「おかず」といっしょに
絵を鑑賞すると、面白くて・・・という流れがあります


楽しめたらいいな、ということが
最近とくに思います
仕事をしていて、社員が育つということが、自分のライフワークの
ように、いいえ正確にいえば、社員が育つということを、サポートしていく
後押しする、しくみを作ったり、実際なんかしら、ヒントをだして
「気づき」を促したりということが、本当に楽しくてうれしいんですね


思い出すと、十代のころから、なにかしら、他人をサポートしていく
という立場って、面白いなと思っていたのです
大学時代にドラマ、演劇をやっていて、アシスタントディレクター、
助監督ですね、そういう役目が楽しくて、役者をやる仲間と
わいわい、やっていたのですね


ふたつ上の先輩に、実際リハーサルにおいて、人を演技に集中させて
その役柄に気持ちをはいりこませる、そんなことがとてもうまい方がいました
その人は、学校の先生をめざしていて、おそらくその先輩に教えてもらった
生徒たちは、単純に「授業」とかのとらえかたでなく、人とどう接したらいいか
人はどう生きたらいいかの、ヒントをもらったのではないか、そんな想像まで
してしまうような、大きな方でした


その先輩のまねをしたくて、ちょっとだけまねてみて、自分で工夫したりして
演劇って、実際、人間をみつめる、人を意識して、育てるという意味では
なんてすごい空間なんだろうなんて、思ったりしたのです
いいえ、正確にいうと、大学のそのときは、体当たりでやっていて、そこまで
理論だって考えたりはできなかったのですが、あとあと、河合隼雄の本で
その理論を、自分でそういう意味があったのかなんて、思ったりしたのです


そんな、人と人が、いわゆるアンサンブルで、ひとつのイベントを
作ってくというすごさ、楽しさというのが、自分のなかにあって
そういうなかで、人を支える、そして仲間といっしょに作り上げる
ということが、なんてすごいのか、人の気持ちを、ひっぱり、目をひらかせ
いわば、人生にめざめさせるのか、そんなふうに思って
いままで、生きてきたのです


だから、ちょっとだけ、まねてやってみてほしい
生きるってどういうことか、考えるときのヒントにしてほしい
なにを?
いま仕事していて、どうしたらいいか?と迷うときに
仲間と乗り越えるというそのやりかたにおいて、そう思うのです