彫刻を見る

何度もみて、目にはいってくる
ということがあるように
思います


目のみえなかった40歳くらいの人がいて
あるとき、目が見えるようになった話をききました


知能としては、高いし、知的好奇心もあるといっていいという
その人は、たとえば、犬というのは、点字とかで
存在を知ってるのだという。
ところが、目がみえるようになって、写真だとか絵本だとかで
犬がでてきてもそれを、犬だとは、認識ができない
ということが起こるという説明がありました


目というのは、というか、ものを見るというのは
目でするのでなく、脳でするのだということを
いいたいらしいのです
視力のある一般の人が犬を犬と認識するのは
さいころからの、積み上げなんだというのですね
だから、後ろむいていようが、横をむいていようが
ぱっと見ただけで、これは犬だと認識する


こういう、話を聞いて、めからうろこで
いろんなものは、つみあげで、見て、そのよさがわかるように
なるように、認識を重ねていくということがあると
気が付いたのです


そこで、思い出すのが、荻原碌山の彫刻であり、佐藤忠良の彫刻です
いま、おそらくは、知らない作品だったとしても、佐藤忠良の作品に
であったら、それが、佐藤忠良だなと気づくように思います


先日、佐藤忠良の芸大時代の同級生だという舟越保武の作品も
見ました。おそらくくりかえしみていると、その良さが
脳になじむのだろうと思います


荻原碌山の「女」は自分の恋心、相手の美しさ、芸術への思い
そんなものを、ぎゅっと、あつめてしまった、逃げ場のない
強さであり、もろさであり、人間の生きてるということが
感じられる作品だと思います


何度目かに訪れた、碌山美術館の庭に、高村光太郎の詩が
ありました。生きて、狂おしいような愛情を、作品にこめて
できあがったときに、そのエネルギーは、碌山の心も体も
つきやぶってしまった。碌山は血をはいた・・・
というような書き方だったと思います


おそらくは、碌山の生き方は、まわりのひとからあこがれられて
また、守ってやりたくなるような、そんな生き方だったのかと
そんな人を失ってしまったのかと、思います
2年ほどまえだったか、碌山のお墓にお参りしました
没後100年という法事が行われたと、ありました
そう思うと、佐藤忠良がうまれたくらいなのですね


逃げ場のないような、生き方、恋にもずいぶん、あこがれましたが
いまは、おだやかな愛し方、恋のしかたで、行きたいという
気持ちを、ずっとずっと育ててきました
そうしてみると、もっとよくみてみたい、人の生き方
そしてよりそう、ということ、また、いっしょに歩んでくれる人
との交流など、たのしいことがあることに
気が付きます


舟越さんの作品も、逃げ場のなさというのを感じました
多かれ少なかれ、芸術を目指してる人の心は、ある一点に
むかって、つきすすむエネルギーのようなものが
ひとつの原点にはあるのだろうと思います


一般人である、私は一点のみでない
生き方もしてみたい