日本の美に会う

サントリー美術館においての
「国宝 曜変天目茶碗と日本の美」


http://www.suntory.co.jp/sma/exhibit/2015_4/?fromid=topmv


六本木の東京ミッドタウンにでかけてみました
藤田美術館は、ぜひ行ってみたくなりました


千体聖観音菩薩立像


まずその姿に、くぎづけ、といったらいいか
たちどまりました
興福寺にあったという菩薩様の数々
その姿が美しく、いいえ美しいという表現は
足らないのです
あることによる、その空間がおごそかになるような
そんな存在感


彫刻好きな、自分としては、こうしたたいへん、質の高い
仏像たちに日本のなかで出会うことができるということが
すごいことだし、そういうことで、おそらくは
写実的な彫刻が、日本にそんなに受け入れられないということも
こういう下地があるゆえだろうと、いつか読んだことが
そうなのかもしれないと、思えてきます


つまり、そこそこの美しさをともなった、彫刻をみても
仏像の美しさ、その存在感ということを、知ってる日本人には
その彫刻の美しさがなかなか、目に入らないのではないか
ということがありそうです


目で見ると、わかる
ということがあると、河合隼雄はいいます
難しい、お経を聞いて、仏様のすごさを知るということは
少なくても、ありがたい仏像の美しさにふれて
ああ、仏様は、お釈迦様って、すごくありがたいものだ
ということが、気持ちにすとんとひびく。すなわちわかる
ということがあると


こういうことを、思うと、やはり「わかりやすさ」って
すごい「価値」なんだなと改めて思うのです


わかるから、安心するということもあるのでしょう
日本のみならず、アジアではそういうことがよく起こる
ようですが、宗教どうしがくっついてしまう
日本の神道と仏教なんて、ずっとくっついてきたようにも
感じますし(ご存じのように、明治に分離するように政府が
やりますが)マレーシアだったか、マリア様と観音様と
くっついたような像をおがむのを、見たことがあります


ようは、神様、おがむ対象がほしい
それが、仏教であれ、キリスト教であれ、はたまた他の宗教であれ
そのなりたちがどうだというより、人々がよりどころとする
ものとして、存在したということなのでしょうかね
そうしたとき、仏像は大きな存在なのでしょう
宗教とは?と頭で考えるのではなく、美しい像をおがむ
それが、ありがたい


人間はときに弱い存在ですね
そう思うと、おがむ対象というのが必要なのだという
ことも、言えそうです


さて、話はもどって、藤田美術館
藤田傳三郎と息子によって、集められた至宝
ぜひ、大阪でも見たくなりました
日本の美って、いいなと思いました
日本の美しさを知りたかったら、ぜひ展示会
行ってみるといいと思います