アルジャノンに花束を

あるきっかけがあって、高校時代の仲間と
読書会を、複数回楽しんでます


先週あった、読書会のターゲットの本はアルジャノンに花束を
でした。これから読みたいという人には、ネタバレがあるかも
しれないです


読書会をやってみて、他人が真剣に考えた、その考え
背景にふれてみるというのは、すごく興味深く
そういうことが、楽しさだと思います
そして、今回、対象の作品に、そのでてくる意見や
考えというのは、よるのだという感覚を、改めてもちました


人間の知能というのは、発達することで
実は、知能の低い人を、優越感をもって、みてしまう
なにかを、伴うということ。傲慢さ、でしょうか
そういうことを、常に反省しなければ、ということが
あると感じたと、しゃべる仲間がいました


実際、いまから思えば、大した知能ではないのですが
10代のころ、自分より知能が劣ってるという人に、全然
寛容でなかった、自分というのが、存在したことを、思い出し
ほんとうに冷や汗をかくような、そんな思いがしました


情けは人のためならず、という言葉が、いま、重いように
思うのです。「知能」に限らず、なんだろう、社会的地位だとか
富だとか、人より持ってるとなると、人間は傲慢になりがち
たとえば、お金を払う立場になると、ついつい傲慢な態度を
とってるのではないか?そういう反省はいつも必要だなと
気づいていながら、実際その場面になると、態度を変えてしまう
自分って存在してるじゃないか?とか、思うわけです


その後の「自伝」といったものを、読んではいないので
想像になりますか、作者ダニエル・キースは、自分の経験
自分への反省をこめて、この小説を書いたのだろうと
推察します


自分自身がどうなのか?というところになると
作品のなかで、なんどもフラッシュバックする、子供時代の
両親、家族との関係が、ある意味、むきだしの自分と接触
する感覚があって、そのあたりは、興味深くも
ちょっと、なまなましいものをさわる感覚ももって
読んだとういことがあります


両親との関係のなかで、「自我」と呼んでいいのかわからない
けど、もうひとりの自分に気づく年齢になり、そのもうひとりの
自分とうまくおりあいがつけられないな、という気持ちになりました
それは、もしかしたらけっこう「誰にも」あること、ありうること
といっていいのかもしれないです


親から叱責をうけたこと、親から、もらった愛情、ある行為に
対する憎悪など、生きていれば、たとえば、思春期のような
人生のなかの「嵐」と呼んでいいような時期を、過ごして来れば
多かれ少なかれ、誰しもがもつような、葛藤、自己制御をどうしようという
気持ち。もろもろ


そういうことを、ときに大事な人のアシストをもらうながら
制御できるようになり、ようやく人間として、社会人として
うまく機能するようになるというのが、人間の本来のありかた
なのかもしれないです


ゆえに、「メンタルでへこんでる」人に出会うとき、ああ
この人は、「ずるさ」とかがないゆえ、へこんでるのかと
ある意味、うらやましくも、気持ちがわかるななどと
思ってしまうこと、もつ経験の方、まわりにも聞くし
多いのだと思います


いい作品でした
そして、しばらくしたら、また読みたくなる作品のように思います