障害者と呼ぶ人のある要素はグラデーション

障害者、と呼ばれる人が存在しますね
障害者、という呼び方も、どうかとも思いますが
他に適当な呼び方が、思い浮かばないので
そうしておきます。


先週参加した、セミナーで障害者と言われてる人の、ある部分の人の
要素は、誰でも持ってるものですよという、話がありました
発達障害」という言い方があって、たとえば、物忘れがひどいとか
口頭で指示された、手順をまちがえるとか、さらには
複数の人の話を聞き分けることができないとか
あるそうです


こうしたこと、実は誰しも、「傾向」としては持ってるのですよと
その講師の先生はつなぎました


ああ、なるほど、とも思うのです
「うっかりすると」物忘れ、大事なものの、置き場所を忘れたなんてことは
結構やっていますね(あ、もちろんしらふ、でです)


たとえば、発達障害の人でも、たとえば、ノイズキャンセリングヘッドホンだとか
リマインドメールをだすとかで、仕事をするのに、問題を最小限にする
やり方があります、という話がありました


誰でも、傾向があることについて、やりやすいように、配慮できる
職場になっていくということが、大事ということ


この話、ユニバーサルデザインの考え方ということでも
聞いたことがある、話でした
つまり、弱者にやさしい、器具。たとえば、足腰の弱った人でも
使いやすいトイレは、健常な人でも使いやすい
そういう考え方ですね


同じセミナーで、10年間で、人が受けとる情報は530倍になってる
という話がありました
これだけ、情報過多となると、受け止めきれない人がいても
おかしくないという話


この情報過多という話を聞いて、すぐ、思ったのは、そういえば
情報について、取捨選択するというのを、無意識にも強化してる
ように感じたのですそうでないと、私の脳というCPUは、処理しきれない
それを、感じて、無意識に、「どうしても必要」という情報以外は
切ってるという状態を作りますね


そこで、と思い返してみると、「切れない」人ってたくさんいるんだというと
感じるのです。自分の立場、今後の生き方などは、「揺れてる」状態だと
情報が、洪水のようにおしよせるなか、どの情報が自分に必要なのか
読み切る、それも瞬時に選択するなんて、不可能ですよね


情報の洪水という表現をすると、いつも「前のめりに」自分をある状態に
しておかないと、その洪水から逃げるというか、よけるというか
やりにくくなってるというのも、感じるところです


どこに、根拠があるか調べないで、ここに書くのもちょっと?なのですが
仮に、情報量が100倍単位で増えてるとすれば、やはり
そこから、身を守るということは、とても大事な話になって
そのために、自分はなにをするかって、大きなことになりつつ
あるようです


自分の味方にできるということを、選ぶということが
とても大事になっていくのですね
さて、私はなにができるでしょうか
もっと、考えを深め、そして、センスを磨きたいですね